トネイロ会の非殺人事件 小川一水 [#(img/表紙.jpg)] [#(img/001.jpg)] [#ページの左右中央]     目次       ★       星風よ、淀みに吹け   くばり神の紀     トネイロ会の非殺人事件 [#改ページ] [#ページの左右中央] [#見出し]  星風よ、淀みに吹け [#改ページ]        1 「いい加減にしてもらえないかな、あなたたち」  蓮台美葉流《れんだいみはる》が椅子の背にもたれたまま冷ややかに言い、頭に乗せられたボール紙の三角帽子を手にとって、くしゃりと握りつぶした。  娯楽室の空気が凍りつく。帽子を彼女にかぶせた泉耀介《いずみようすけ》と、それを作った児玉有果《こだまゆか》が顔を引きつらせた。  リーダーの江綱守人《えづなもりひと》はうんざりして顔をしかめそうになった。  ――また始まったか。  だが、江綱が口を開くより早く、美葉流が動いた。手首の軽いスナップだけで帽子をゴミ箱へ投げ入れて、料理とシャンパンの並んだテーブルに身を乗り出し、くっきりした切れ長の目で一座を見回す。それだけで、残る五人の注意をひきつけてしまった。リーダーの江綱でさえも目を奪われた。美葉流にはそういう、どこで何をしても人々を振り向かせずにはおかない、見えない光輝のようなものがあった。  美葉流は聞く者の耳に優しく触れるようなアルトで言った。 「最後の晩餐会だと聞いたから私は出たのよ。ご馳走を作るしお酒も出すって。そういう席なら楽しかったでしょう。来《き》し方を振り返り、行く末を見つめて有益な話ができたと思うの。けれど何、出てみれば、くじにビンゴに歌ですって?」  美葉流は右隣の泉の顔から、彼のとっておきの鼻眼鏡をつまみ取って、失望の色を浮かべながら指先でくるくると回した。 「阿呆らしいにもほどがある。これまでの八ヵ月が、こんな見せかけだけのばか騒ぎで総括できると本当に思っているの? 私たち、そんなに仲よしこよしだったかしら?」  口下手の泉はとっさに言い返せず、顔色を変えて痩せた肩を震わせている。反対側の児玉も六歳も年上の同性には強いことを言えず、身を硬くして黙っている。  江綱の隣で、国崎勝利《くにさきしょうり》が勢いよく立ちあがった。椅子が派手に後ろへ倒れる。 「見せかけだけじゃあありませんよ、ツナさんとおれたちの心尽くしですよ! いろいろ納得できないこともあったけれど、もう最後なんだから永に流して、気持ちよく外へ出ようってことじゃないですか!」  国崎は腕を広げて熱く叫んだが、美葉流の氷のような眼差しにあって口をつぐんだ。 「水に流す? 気持ちよく? どうしてそんなことをしなければならないわけ? 建前だけでも成功ということにしたいから? そうよね、バイオスフィア2みたいに仲間割れで実験が失敗したなんて、外聞が悪いものね。あなたは失敗が何より怖い。そうでしょう、ブイくん?」 「おれは失敗を恐れてなんかいません! おれは――」  勢いこんで叫ぼうとしたが、美葉流が別のほうを向いて流れるように続けたので、彼の言葉は立ち消えになった。 「けれどあなたたち、いいかしら。これはアリゾナ砂漠で破綻した道楽の真似事でもなければ、ましてや、日本政府のメンツを立てるためだけの張りぼて事業でもないのよ――」  美葉流は心もち、身を引きさえした。だがその瞳は全員を鋭く貫いた。 「これは競争よ。闘争よ。中国、インド、トルコ、EU、それに言うまでもなくロシアとアメリカ! そういう、やる気になっている国からやる気でやってくる宇宙飛行士《アストロノーツ》たちと、現地で、月面で実際に角突き合わせるのよ! 私たちが! ことによると私が! 生命の危険があるかもしれないし、水や酸素や食料が切れるかもしれない! そういう場所へ行くためにやってるのよ。重要なのは生きるか死ぬかよ! 気持ちよくもへったくれもないわよ! そんなことはどうだっていいのよ[#「そんなことはどうだっていいのよ」に傍点]!」  ふっ、と息を吸うと、美葉流は乾いた笑顔になって、指先のおもちゃをくるりと回した。 「鼻眼鏡なんか、飼育ヤギの餌にでもすればいいのよ」  火を噴くように激しく、それでいて流麗な舌鋒に、みなが呑まれてしまった。ややあって、残る一人のメンバー、久保田正孝《くぼたまさたか》がいかつい顔を険しくして言った。 「ミハル、いい加減にしないか。ここは記者会見場じゃないんだぞ」 「記者会見ならもっと口当たりのいいことを言うわ。私はあなたたちにこそ、これを言っておきたいのよ。あなたたちがやってるのはおままごと。実際に宇宙へ行く覚悟が足りていない。たかがこの程度のことを諍《いさか》いだと思わないでほしい。私はもっともっとギスギスした関係でも平気。むしろそのほうが楽しいぐらいよ」 「ミハル!」  久保田が怒鳴った。美葉流は軽く口を尖らせて彼をにらむ。久保田の怒声にひるんだ様子はなく、楽しむような目だ。  江綱はため息を押し殺して声をかけた。 「ミハル、部屋へ戻ってくれ」 「命令するのね? リーダー、収拾できなくなったから追い払うのね?」  すかさず美葉流が挑発するように言った。江綱は息を吸って、気力をこめて美葉流を見つめた。 「そうだ。ミハル、今の君は有害だ。しばらく部屋に入れ」  美葉流が驚いたように息を止める。空気がぴんと張りつめた。  だが美葉流は、すぐに余裕の表情を取り戻して席を立った。娯楽室を出ていくセミロングヘアの後ろ姿には、舞台を成功させて退場していく、女優のような気品すら感じられた。  美葉流の姿が消えると、室内に後味の悪い静けさが生まれた。江綱は胸のうちで思った。  ――窒息しそうだ。  実際には空気循環装置が常時作動しており、その低いうなりも常に聞こえている。それでも、こういうことがあると、ここが密閉された鉄の箱の中だということを、つい意識してしまうのだった。  しかしいつまでも気落ちしているわけにはいかない。江綱は顔をごしごしとこすって、振り向いた。 「タカさん、ミハルを見てきてもらえますか」 「いいのか」 「ぜひ、ね。食事も運んでやってください」  江綱が重ねて言うと、彼より二つ年上の久保田はトレイを二つ手にして、立看板を思わせる幅広の体を通路へと運んでいった。 「さ、食べるか」  江綱が言うと、ようやく娯楽室の空気がゆるんだ。内気な泉がぼそぼそとカイワレのサラダを頬ばり始め、国崎は腹の虫が収まらないというように言った。 「なんなんですかね、彼女。せっかくうまく締めくくってやろうとしたのに、あんなひどいことを言うなんて」 「ブイ、彼女の気持ちが一番わかるのはおまえだと思ったんだがな。宇宙、行きたいだろ」 「そりゃあそうですがね! だからこそ、ってやつっすよ!」  児玉がショートカットの頭をひとつ振って立ち上がり、憤る国崎と泉に大皿のチキンの香草焼きを切ってわけだ。鶏も香草も彼女自身が育てたものだ。児玉は江綱の隣にも来て皿を差しだした。 「ミハルさんに、ツナさんと仲直りしてほしかったのに」 「すまん、おれの力不足だ」 「ツナさんのせいじゃないです」  児玉は寂しげに言って、大きな優しい目で江綱を見つめた。  さんざんの結果になった晩餐会のあと、江綱は自室のノートパソコンで最後の日報を書きながら、苦い思いで今日までのなりゆきを考えていた。  ――どうしてこんなことになってしまったんだろうか……。  八ヵ月前の出会いが、何十年も昔のことのような気がした。  東京から列車で二時間ほど離れた、広大な敷地に建てられた白亜の建物で、久保田正孝、蓮台美葉流、児玉有果、国崎勝利、泉耀介、そして江綱守人の六人は初めて顔を合わせた。  日本宇宙機構《JSA》の閉鎖環境長期滞在実験施設、|BOX‐C《ボックス・シー》実験の志願クルーとして。  BOX‐Cは将来の月面基地建設を見据えて作られた、言うなれば「練習用の月面基地」だ。ゼロ年代の終わりから中国やインド、トルコなどが、次々と有人宇宙機を打ち上げ、月面基地の建設を狙い始めたのに刺激されて、政府機関であるJSAが設置した。  この施設の建設目的はふたつ。ひとつは基地施設の性能を実証すること。そしてもうひとつは、閉鎖施設で暮らす人間そのものの養成だ。  施設で暮らすチームが、そのまま将来の月基地要員に移行するわけではない。そもそも想定される月基地のキャパシティは三名で、うち一名は自衛隊枠だ。しかし残りの二名が、このBOX‐Cで経験を積んだ人間のうちから選ばれることは、ほぼ決定事項だとささやかれていた。ここでの成績いかんによって、アームストロング船長の後継者となれるかどうかが決まるのだ。当然、全員がそれを期待していた。  施設内には個室もあるが、環境を維持するための共同作業が欠かせない。六人のクルーは家族のように親密になることを要求される。全員が書類選考を通過した優秀な人材だが、性格面は未知数だ。はたしてうまくやっていけるかどうか、江綱は緊張していた。  しかし、心配は杞憂だった。本実験に先立つ一週間の予備実験の間に、六人はすっかり打ち解けた。実験をサポートする外部スタッフの提案で、あだ名を付け合うことになったが、それもすんなりと抵抗なく決まった。  リーダーに指名されていた江綱は一番にあだ名の対象となり、ツナと呼ばれることになった。  最年長の三十七歳であり、巨体でいかにも頼り甲斐のありそうな機械技師の久保田は、タカという名がついた。  電気技師で、目から鼻に抜けるような才気を持つ二枚目の国崎は、下の名前の勝利から取って、ブイと呼ばれた。  ブイに負けないほど才気|煥発《かんぱつ》なシステム技師で、目の覚めるような美人の蓮台は、自らミハルと名乗った。  畜産技師であり、小柄で仕草の愛くるしい児玉は、全員一致でタマちゃんに(本人は嫌がっていたようだ――最初だけ)。  そして、植物工学の研究者である物静かな学生じみた泉は、誰言うとなくズミと呼ばれた。  そんな六人で長期の本実験を開始した。  最初のころは、毎日の生活に張りがあり、刺激的だった。仲間たちは一人一人が高い職能を持っており、閉鎖系を維持するための農業や機械整備など、多岐にわたる操作を安心して任せることができた。仕事のことを抜きにしても、みんな親しみやすく個性的で、一緒にいて楽しい家族のようだった。ムードメーカーの国崎は一日に何度もみんなを爆笑させたし、泉も時おり専門知識とからめた冗談をとぼけた風情《ふぜい》で飛ばしては、人を笑わせた。久保田はいかつい顔に似合わず料理がうまく、児玉は根っから献身的な性格で、行き届いた気配りでメンバーの物心両面をサポートし、リーダーの江綱の負担をずいぶん軽くしてくれた。  そして、ひときわ強く輝いていたのが、美葉流だった。  蓮台美葉流は珠玉の人材だった。その美貌や起伏に富んだ見事なスタイル、そして仕事における飛び抜けた才覚もさることながら、集団の中の人間として類を見ない才能を持っていた。才能? いや、あれを才能と呼ぶのはふさわしくない。小さなサルビアやマリーゴールドのひしめく花壇に、ただ一本、図抜けて高く咲いてしまった向日葵《ひまわり》を、才能があるとは言わない。元から異なる存在なのだ。美葉流は、閉ざされたBOX‐Cには大きすぎる人間だった。  彼女は全分野に手を出した。農場の栽培計画を刷新させ、配電プログラムを書き加え、中水処理槽の配管を継ぎ直し、搾乳用のヤギの何頭かを早期に処分した。そのどれもが、最適な変更だった。BOX‐Cの環境は以前よりよくなったり、あるいは危機を脱した。みんなが驚き、感謝した。  それが一度だけならよかったのだ。――一度だけなら、誰も彼女を嫌わなかっただろう。あるいは、短期の実験だったならば。  だが、八ヵ月間の実験を終えた今では……。  コツコツとノッカーの音が聞こえ、江綱は我に返った。船の士官室のような三畳程度の部屋の入り口に目を向ける。空気の流れをよくするために扉はなく、カーテンで塞がれているだけだ。カーテンの下端に白いサンダルが覗いていたので、どうぞと答えた。  入って来たのは児玉有果だった。隣の娯楽室で片づけをしていたはずだ。彼女をひと目見たとたんに江綱は異様な感じを受けた。いつも快活で無邪気な彼女の顔に、今夜は濃い疲労の影がある。いや、疲労ではなく心労だろう。  江綱はPCの蓋を閉ざして彼女に向き直り、できるだけ優しい口調で言った。 「どうしたんだい、タマ」  児玉は何度か口を動かしたものの、声が出ない様子で黙っていた。手を後ろに組んでゆらゆらと体をゆすっているのは、抱き寄せてほしいというサインだ。しかし江綱はそんな気になれなかった。そういうことをするには、気持ちが重すぎた。  だからしばらく彼女を見上げたものの、立ち上がって触れてやることはせず、代わりに戸口の脇に置いてある折りたたみ椅子を指差した。 「座れよ。しばらく休んでいくといい」  児玉は目を落として椅子を開こうとしたが、急に江綱を振り返って言った。 「ツナさん、あのっ」 「ん?」 「私、ほんとにツナさんは悪くないと思いますから!」  そう叫んだ児玉の目には、どこかいつもと違う熱っぽさがあるような気がした。江綱はうなずいたものの、いぶかしさを抑えられず、身を乗り出した。 「タマ、どうした。誰かに何か言われたのか?」 「いえ、何も言われてませんけど、私はツナさんが……」 「おれが?」 「――いえ」  首を振ると、児玉は不意に微笑んだ。いつも通りの、子猫のように邪気のない笑顔だったが、唐突すぎてかえっておかしい気がした。 「なんでもないです。お邪魔してごめんなさい。私、まだ仕事があるので」 「もう十一時だぞ」 「皿洗いだけじゃないですもの。久しぶりに外の人が来るんですから、見られても恥ずかしくないようにしないと」  早口に言うと、児玉はカーテンに手をかけた。出て行くというものを引き止める気力はなく、江綱は小さくうなずいた。 「……そうか」  児玉は、するりと出ていった。ステンレスの床に敷かれた分厚い絨毯をスリッパが撫でていった。  江綱はため息をついて深く椅子にもたれた。何についてのため息かは、自分でもよくわからない。児玉の屈託ひとつもほぐしてやれなかったことか。いや、児玉だけではなく全員に対してだ。リーダーとしての負い目が大きい。  静かだ。空気循環装置の低いうなりだけが聞こえている。今ごろ他のみんなはどんな心持ちでいるのだろう。自分のようにこの長い実験を悔いているのか。それとも、もう、寝てしまっただろうか。  江綱は長いあいだ、額を押さえて天井を仰いでいた。  やがて、彼の心の中であるひとつの決意が固まった。  ――このままではよくない。このまま終わらせるものか。  江綱は立ち上がり、入り口に向かった。  カーテンをくぐるとき、デスクの上に外しておいた腕時計が、零時のアラーム音を立てた。  どこか遠くからベルの音が聞こえた。昔の駅にあった列車の出発を告げるベルのような音だ。乗り遅れてしまう。悪夢の中で江綱は焦ってもがき、目を覚ました。  自室のべッドだった。不快な寝汗で背中がぐっしょりと濡れている。頭痛がした。手探りで腕時計を確かめると、3:04の文字が光っていた。起床時間にはほど遠い。道理で頭が痛むわけだ。  ベルが鳴っている……。  突然、江綱はそれが現実の警報だと気づいて跳ね起きた。何の警報かまではわからないが、放置していいわけがない。ジャージをシャツの上に引っかけて廊下に出ると、隣室から国崎も顔を出した。「なんすかぁ?」と目をこする彼の頭を、江綱は軽く叩いた。 「わからん、とにかく来い」  廊下は暗く、オレンジ色の常夜灯だけが点《とも》っている。警報の源は自分たちのいる二階ではないらしい。江綱は次の美葉流の部屋の前を通りすぎて、中央階段へ走った。後から国崎の足音がついてくる。  階段を降りたところで、北棟へ続く扉から出てきた泉とはちあわせした。泉は一階に部屋があるから先に駆けつけたのだろう。「どうした?」と声をかけると、泉は「僕もいま見にきたところです」と答えた。 「いま入ったんですけど、ガス関係の警報っぽいんで逃げてきました。ツナさんたちを起こしに行こうと」 「よし、見に行こう」  江綱は彼の横を通って北棟に入った。とたんにベルが鼓膜に突き刺さるような音量になった。  立ち並ぶ円筒形や球形の巨大なタンク類と、複雑きわまる配管が、まばゆい照明のもとで三人を迎えた。BOX‐Cの北棟はまるごと、二階までぶち抜きの化学処理室になっているのだ。その奥を赤色回転灯の光が不吉な色に照らしている。  奥へ進んだ江綱は、ピットに収まった縦長のトーテムポールのような多段反応タンクのそばで、灯火が回っているのを見つけた。振り向いて怒鳴る。 「CO2[#「2」は下付き小文字]警報だ! ズミ、排気装置《ブロア》回してガスセンサ読め。ブイ、マスクを全員分持ってこい!」 「は、はい!」  命令したあとで江綱は慎重にピットに近づいた。  ピットとは床を掘りこんだ竪穴《たてあな》のことだ。背丈があって天井につかえてしまうような大型夕ンク類を、無理なく配置するために、しばしばそのような穴が掘られる。この施設のピットは深さ二メートルほどもある。  いま鳴っているこのけたたましい警報は、ピットの底の二酸化炭素濃度センサと運動するものだ。二酸化炭素は毒性の高いガスではないが、空気より重いために低所に滞留する。ピットは施設内でもっとも低いため、ガスがどこで漏れようと最終的にはここへやってくる。センサはそれを検知し、施設にガス漏れがあることと、何よりもピット自体が危険であることを知らせる。  このセンサはきわめて重要だ。なぜなら、人間は特に有毒なガスが存在しなくても、酸素濃度が十六パーセント以下の場所に立ち入れば、たちまち窒息してしまうからだ。  息を止めてピットの底を覗いた江綱は、ぞっと鳥肌立った。  ピットに立つタンクの陰に、人間の形をしたものが横たわっていた。  思わず、叫びそうになったとき、腕いっぱいにマスクを抱えた国崎がそばに走ってきた。 「ツナさん! これ……」 「よし、おまえもつけろ」  付属のボンベで十分間、酸素が供給される自給式呼吸具だ。使い捨てなので名札を貼って各自で管理している。それを顔にかけながら江綱が見ると、国崎はあわてたのか美葉流のものを使っていた。 「おい、それミハルの――」 「なんすか!?」 「いや、いい」  この際、誰のでも同じことだ。国崎が持っていたもうひとつのマスクも江綱は引き取った。そちらに国崎のシールが貼ってあった。 「下に誰かいる。見てくる」 「マジですか? じゃあおれも」 「おまえはズミにマスクを渡して、それから残りの連中を起こしてこい。三人じゃ手が足りん!」  国崎を押し戻したとき、壁際のセンサ盤に取りついていた泉が叫んだ。見れば、彼はピットに立つタンクの中腹をにらんでいる。 「あれだ! ツナさん、バルブが折れてます!」 「バルブが折れてる?」  目を凝らすと、タンクから突き出した蛇口のようなバルブが数本まとめて折れていた。何か大型の装置を動かしたときにでもぶつけたのだろうか。 「ここから漏れたのか?」 「それ、サバチエ第一のタンクですから、多分そうです。H2[#「2」は下付き小文字]と反応前の圧縮CO2[#「2」は下付き小文字]を詰めてるやつです」 「ブロワは! もう回したんだな?」 「回しました! CO2[#「2」は下付き小文字]分圧二十二パーセント、でも下がり始めてます」  CO2[#「2」は下付き小文字]が二十二パーセントも含まれた空気を吸えば、人間は三呼吸と持たずに窒息死する。ピットの底は死神の吐息の漂う淀みのようなものだ。江綱はつとめて平静を保とうとしながら、マスク片手に梯子を降りた。  薄暗いピットの底に降り立って、後ろを振り返る。見間違いであることを期待していたが、その期待はあっさりと打ち砕かれた。  蓮台美葉流が仰向けに倒れていた。 [#(img/025.jpg)]  つややかな髪のかかった半面に、苦悶の色はほとんどない。だが肌の色は紙のような白さで、唇は幼虫の腹を思わせる青黒い色に染まっていた。服装や姿勢には乱れがないように見えたが、袖から覗く手の先の爪も、やはり不気味な青紫色と化していた。  実例を見るのが初めての江綱にも、チアノーゼだとはっきり見当がついた。窒息死の典型的な症状だ。  いや、まだ死んだと決まったわけではない。――江綱は急いで、持参のマスクを美葉流の顔に当ててやろうとしたが、肌に触れたとたんに手遅れだと悟った。陶器のようにひんやりと冷たい。細い首筋にも指を当ててみたが、拍動はなかった。  美葉流は死んだ。江綱はしばし、呆然とした思いで、床に横たわる彼女を見下ろしていた。彼女を憎んだこともあったが、いま感じるのは輝く星が沈んだあとの寂しさ、大きな喪失感だった。  なぜ。  なぜこんなことが起きたのか。  なぜこんな事故が起きてしまったのか……。  ――事故?  疑問が兆《きざ》した。  これは事故なのか。化学処理室の担当者でもない美葉流が、みなの寝静まった夜中に、一人でピットヘ降りて、たまたま漏出していたガスを吸って死ぬ。そんなことがあるのか?  あるわけがない。  とすると自殺か――あるいは。  不吉な想像が急速に湧き起こり、江綱はさらに考えを深めた。そしてあることに気づいた。  美葉流の体は冷たくなっている。死んでから相応の時間が経っているはずだ。だが、警報が鳴り出したのはついさっきだ。おそらく十分もたっていない。つまり――美葉流が窒息してからかなり後まで、警報は止められていた[#「警報は止められていた」に傍点]。  江綱はピットの中を歩き回って、その想像が正しいかどうかを確かめた。その間ずっと、今までの人生で感じたことがないほどの寒気を、背筋に感じていた。  やがて靴音がして、ピットの上にメンバーが顔を覗かせた。 「ツナさん、タンクの反応を止めました。CO2[#「2」は下付き小文字]処理は予備に回しました」 「ミハルさんは?」  四人全員がマスクで顔半分を覆っていた。江綱は力なく首を振った。 「だめだ。死んでる」 「死んで……」 「いま上がる」  江綱はそう言って、梯子を登った。右手の指先に、小さな四角いかけらをつまんでいた。地上へ戻ると、メンバーを見回してそのかけらを差し出した。「ミハルは……!」と叫びかけた久保田が、出鼻をくじかれたように言った。 「なんだ、それは」 「アルミテープだ。CO2[#「2」は下付き小文字]センサに貼ってあった。糸と錘《おもり》がついて、ゆっくりとはがれるようになっていた。センサを塞いだんだと思う」 「なんだって……じゃあ、ミハルは自殺したのか!」  答える前に、江綱は壁面のセンサ盤に目をやって数値を読み取った。〇・四パーセント、無害な濃度だ。ブロワですっかり外部へ排出されたのだろう。  江綱は首を振って、言った。 「ピットにゴム手袋[#「ゴム手袋」に傍点]があったら、そう言えたかもしれんな」 「ゴム手袋?」 「ああ。アルミテープをつまむためのゴム手袋だ」  しん、と四人が静まり返った。江綱はテープをつまんでいた指を開いて、彼らに見せた。 「この通り、つまめばテープに指紋がつく。だが、おれがはがした時には指紋がなかった。これを貼った人間はゴム手袋か何かをはめて作業したんだ。しかしピットにそんなものは残っていない。ミハルが本当に自殺したのなら、ゴム手袋をはめて作業した上で、それを外のどこかへ投げ捨てたことになる。――そんなこと、おかしいだろう」 「ツナさん……それ、どういうことですか!」  児玉が叫んだ。江綱は深くうなずき、自分の頭の後ろに手をやってマスクを思いきりはぎ取った。 「ミハルは殺されたってことだ」  江綱はマスクをした四人をじっと見つめた。――誰かが、ごくりと唾を飲んだような気がした。  不意に、久保田が突進するように梯子を降りていった。  やがて彼の怒りとも悲しみともつかない太い声が、ピットから湧き出した。        2 「新雪みたいにきれいっすね」  中央階段前にある、銀行の金庫のような威圧的な鉄扉のそばにしゃがんで、国崎が言った。――八ヵ月前に閉じられたきりのその扉の前には、均質なほこりがうっすらと積もっており、足跡らしきものは見当たらなかった。  それを見下ろしながら、江綱は久保田に言った。 「屋上にもハッチがあったな」  中央階段は校舎や社屋でよく見られる踊り場型で、屋上へ突き出した塔屋に気密のハッチがある。だが、そこはソーラーパネルの設置工事以後、使われていないはずだった。 「外から屋上へ登る梯子はなかった。ヘリでも使わないかぎり屋上へは行けない」  腕組みして壁にもたれた久保田が言った。美葉流の死体を前にして号泣した彼は、ものの十五分ほどで平静を取り戻していた。ただ、その内心まではわからない。 「予備の通路や、メンテナンスハッチなどはなかったよな?」 「あるわけないだろう。ここはBOX‐Cだぞ」  久保田に言われて、江綱はうなずいた。 「わかってる……それはわかってるさ」  BOX‐Cは閉鎖環境施設だ。この「閉鎖」とは、単に人を閉じこめたというだけではなく、水、食料、廃棄物、空気にいたるまで、あらゆるものの遮断を指す。宇宙基地を想定した施設だから、密閉の度合いは極めて厳重で、壁面はすべてステンレス鋼張りで継ぎ目は溶接されており、出入り口は潜水艦並みの気密扉か、インターロックのついた二重扉になっている。もっとも漏れやすい気体である水素分子すら逃がさない。  もちろん、遮断したままでは内部の生活はすぐに行きづまってしまうから、BOX‐Cの内部には資源を完全に循環させる仕組みが用意された。六名分の居住空間に加えて、農場や作業室、巨大な化学処理室などが配置されている。処理室では、水素と二酸化炭素を反応させてメタンと水を得るサバチエ還元反応による、室内空気の再生処理、メタンや一酸化炭素などの有毒ガスの吸着、飲料水の造水やオートクレーブでの廃棄物焼却など、さまざまな処理が半自動で行われている。  それらのシステムヘ、計画されている月面基地と同じように太陽電池が電力を供給する。BOX‐Cの屋上には、メンテナンスフリーの太陽電池パネルと夜間用バッテリーがびっしりと並べられ、この八ヵ月間、トラブルなしで電気を供給してきた。  つまりBOX‐Cは完全な密室なのだ。そうとわかっていても江綱は外部との出入りに望みをかけたかったが、泉がそれを粉砕した。 「出入りのために壁が壊されたようなこともないみたいですね。外気が入ったら必ず、環境モニタの同位体センサに出るはずですから。この二十四時間以内にそういう記録はありませんよ」  階段に腰かけ九泉が、環境モニタにつながる携帯端末をいじりながら言った。  江綱は沈んだ口調で言った。 「つまりこれは、外の人間の仕業じゃない、ということか……」  その言葉に、場の空気がきしんだ。――誰もがおそるおそる目を上げ、すぐに伏せる。疑いの眼差しと抗議の眼差しが、音もなく交錯したようだった。  国崎が苦い顔で言った。 「とにかく通報しましょう。人が死んだんだから警察に届けなけりゃ」 「そ、そうです。早くカモさんに伝えなきゃ」  児玉が、親しい外部連絡スタッフの名をあげて言ったが、江綱は首を振った。 「カモはいない。今夜は外の制御室は無人だ。明日は、いやもう今日なのか、実験終了でてんやわんやになるから、寝ておくって言っていただろう」 「非常ベルを押しましょう! 押せばスタッフが来るし消防にも連絡が行く。こりゃあ、それぐらいの大事件でしょう?」  国崎が壁面の赤いボタンに指を伸ばした。江綱は彼を見つめて言った。 「押せるのか?」 「え?」 「押せば気密が破られて、実験条件が壊れる。おれたちの八ヵ月の苦労は台無しになる。それだけじゃない……訓練で人が死んだなんてことが知られたら、JSAは大変なダメージを受ける。日本の世論は人死《ひとじ》にに厳しいからな。しかもそれが殺人だとなれば……これは、月面計画そのものが根底から崩れるぞ。日本人は閉鎖環境のストレスに耐えられない、なんて結論が出されてしまうかもしれん」  国崎の額に、じっとりと汗が浮かぶ。その指が震えて、ゆっくりと下がった。  そうだろうな――と江綱は思う。誰よりも熱心に宇宙へ行きたがっていたのが国崎だ。自分の未来を断つことになるボタンを押せるわけがない。  ほかの三人も、慄然とした顔で黙っていた。江綱は彼らをゆっくりと見回して言った。 「だから……というわけじゃないが、おれからひとつ頼みがある」 「なんです」  泉が陰気に言った。江綱は答えた。 「言ってくれ」  四人の肩が動いた。江綱は続けた。 「本当のところを言ってくれ。自分がやった、こういう理由でやった、ということを話してくれ。せめておれたち仲間を納得させてくれ。謎を謎のままにして、外の連中の前に出ていくような無様なことを、しないでくれ。おれたちは……仲間だったじゃないか」 「仲間……だと?」  ギリッ、と音がした。――それは、久保田の歯ぎしりの音だった。  次の瞬間、久保田は怒鳴った。 「何が仲間だ! おれのミハルをあんな風にしやがって……!」  ドン、と拳がステンレスの壁面を打ち、みなが身を硬くした。いつも古木のように泰然としている彼がこんな風に怒鳴るのは、めったにないことだった。  しかしまた、誰もが彼の怒りを正当だと思ったようだった。  江綱は残る三人に目を向ける。児玉は大きく目を見開き、信じられないというように後ずさった。すると、ずっとうつむいていた泉が言った。 「僕はパーティーが潰れてからずっと農場にいましたよ。低酸素栽培室の手入れで。だから寝てません」 「そうか。タマは?」 「私? 私がやったっていうんですか? なんで私なんですか?」 「そうじゃない。ミハルが死んだころ、何をしていたのかって聞いてるんだ。午前……二時ごろかな」 「私、やってませんっ! やる意味とか、方法とか、なんにもないじゃないですか! ねえ!?」  実際に死体を目にしただけに、それを自分の仕業だとされるのが恐ろしくなったのだろう。児玉は江綱や泉に次々と目を向けて、引きつった顔で訴えた。こんなにうろたえる女だったろうか、と江綱は不思議に感じる。  すると今度は、国崎が淡々と言った。 「一時四十分ぐらいまで自室で報告書を書いたり、メール打ったりしてました。ファイルのタイムスタンプがその時間になってます」 「タイムスタンプなんていくらでも改変できますね」 「それを言うなら農作業だってなんの証拠にもなりゃしない」  泉と国崎は、乾いた口調で言い合った。事実を指摘しているだけなのだが、声に感情がこもっていないのが、かえっておかしな雰囲気だった。  江綱は片手を小さくあげ、事務的に言った。 「おれは十二時前に寝たよ。アリバイはない」 「アリバイ……」  つぶやいた児玉に、江綱はうなずいた。 「自分じゃないっていうなら、申告しておけ。これはやらなければ損になる機械的手順、それだけのものだ」 「ツナさんも信じてくれないんですか?」 「……そんなわけないだろう」  江綱が目じりにかすかな笑みを浮かべると、多少は気持ちが落ち着いたのか、児玉はうなずいて言った。 「十二時まで娯楽室で片づけをして、そのあと部屋へ戻って寝ました。それだけです」 「同じく。十二時ごろ寝た」  久保田が簡潔に言った。江綱は尋ねた。 「晩餐会のあと、ミハルの様子はどうだった?」 「いつも通り……いや、いつも以上だったよ。部屋で荒れてた。なだめようとしたが、追い払われちまった。それが十一時前だったかな……くそっ、もっと長くいてやれば!」  苦しげに顔を押さえて、久保田はまたうめいた。  江綱はため息をついた。 「全員、やっていないと言うんだな。自発的に申し出てほしかったが、そういうことなら仕方ない……」  無理にでも犯人を洗い出す。江綱はそう口にしようとした。  そのとき、泉がぼそりと言った。 「なぜやったかはともかく、犯行が可能だった人間は一人しかいないと思うんですがね」 「……どういうことだ? ズミ」  江綱は鋭い目で泉を見た。泉は顔を上げて、不思議そうにまばたきした。 「どういうことですって? え、わからないんですか? ――だって、ミハルさんをピットに呼び出せる人間[#「ミハルさんをピットに呼び出せる人間」に傍点]なんて、タカさんだけでしょう?」  江綱は息を呑んだ。そうだ、その通りだ。  美葉流の恋人だった久保田でなければ、それは無理だ。  ゆっくりと振り向くと、久保田がいぶかしげな顔で見つめていた。 「タカさん……」 「なんだ」  久保田がそう答えてから、周りの視線に気づいてぎょっとするまで、少しの間があった。  仲間の凝視を受けた久保田は、もう一度「なんだ」とつぶやいてから、さっと顔を朱に染めて泉をにらんだ。 「おれか? おれがミハルを殺したっていうのか?」 「それはわかりません。でもタカさんはよく、ミハルさんをBOX‐Cのあちこちに呼び出していました。想像してください。僕が、ツナさんが、ブイさんが、あるいはタマちゃんが彼女を呼び出す――夜中のピットにですよ。彼女が、あのミハルさんが、来ますか? 降りてきますか?」  それは恐ろしく説得力のある呼びかけだった。誰もが想像した。勝気で反抗的で、ついさっきその場の全員を相手に挑発的なたんかを切ったばかりの美葉流が、ひと気のない処理室の物陰にのこのことやってくる。これほどありえない光景もないだろう。  久保田はこめかみにありありと血管を浮かせて、うなるように言い返した。 「それは、難しいかもしれん。君や、ブイや、タマちゃんなら。しかし――彼は?」  隣に立つ江綱を親指でさして、久保田は続けた。 「リーダーなら? 彼が命じれば、ミハルでも誰でも出頭せざるを得ない。内密の話だといえば可能だ。おれでも行くよ。特に、あんな難しい騒ぎがあったあとだもの」 「ツナさんなら――」 「それこそありえません」  児玉のつぶやきをさえぎって、泉が強く反論した。 「ツナさんは面と向かって有害だと言ったんですよ。有害! そんな言葉をミハルさんが許すわけがないでしょう。仮にツナさんが呼び出したのだとしても、彼女の答えは簡単に想像できます。――なぜ私が行かなければならないの? あなたが来て謝るのが筋でしょう、と」  日ごろ口数の少なく、でしゃばることのない彼が、意外にも美葉流の口調を生き生きと真似て言ったので、一同は少し度肝を抜かれた。久保田でさえ、面食らったように押し黙った。  泉は青白い顔をかすかに上気させて、さらに付け加えた。 「動機は……ぼくにはわかりません。お二人のことですから。でも、いろいろあったんじゃないかという気はじます」 「いろいろ、か」  国崎が、なかば納得したようにつぶやいたとたん、その二の腕を久保田が手を伸ばしてつかんだ。 「いろいろとはなんだ。え? なんだと言うんだ!」 「やめてください、タカさん」  江綱は二人の間に割って入り、久保田を見つめた。 「あんたじゃないと?」 「当たり前だ!」 「そうですか。じゃあ、議論はちょっと中止して、調査をしてみませんか」 「なんだ、調査?」  久保田がいぶかしげに腕を引いた。江綱はうなずいた。 「ミハルの持ち物を調べてみましょう。誰かに呼び出されたのなら、ひょっとしたら手紙か何かを持っているかもしれない」 「メールや内線だったら?」 「それもあとでログを調べます。とりあえず今は、ミハル本人だ。あんな暗いところに放置しておくのも気の毒だしね」 「現場を保存しなくていいんですか?」  そう言った泉に、江綱は肩をすくめてみせた。 「微小な痕跡からDNAを検出しようとでも? おれたちは警察じゃないんだ。そんなことはできないし、警察がやる前に真相を知らなければならない」  江綱が見回すと、泉以外の全員がうなずいた。  それでも一同は現場の様子の重要さを知っており、まずは何十枚もの写真を撮った。それから、美葉流を引き上げようとした。  ピットの二酸化炭素は排気されて完全に消えていたが、二メートルの落差は大きすぎて、素手で死体を引き上げることはできなかった。久保田が天井のスライドレールを見上げて言った。 「無理にやって傷つけたくない。ここはクレーンを使おう」 「そうですね。どこかその辺にロープはないか」 「探してきます」  児玉が姿を消し、すぐに農作業用の綿ロープを持ってきた。美葉流の体にそれをかけ回し、クレーンで床に吊り上げた。彼女は実験クルーの普段着にあたる、長袖のトレーナーとショートパンツを身に着けていた。以前なら、上衣を押し上げる形のいい胸のふくらみと、すらりと伸びた肉付きのいい足は、野暮ったい格好をしていてさえも一同の目を引いたものだった。だが今はただのモノとして不気味に弛緩している。 「持ち物を調べる」  江綱はそう宣言して、美葉流の衣服を調べたものの、何も見つけられなかった。しかしそこでやめることはせず、引き続き腕や足を取って丹念に見つめていった。児玉が震え声でおぞましげにささやいた。 「ツナさん、そんなにあちこち見なくても……」 「傷がないかと思ってな。ひょっとして、殴って気絶させてからここに運んだのかもしれない。あるいは睡眠薬や酒で眠らせたとか」  しかし美葉流の口からアルコールや薬品の匂いは感じ取れなかった。外傷はひとつだけあった。後頭部にできた、手で触れてわかるほどの瘤《こぶ》だ。しかしそれは別におかしなものではなさそうだった。 「梯子を握って降りる。底に着いたとたんにCO2[#「2」は下付き小文字]を吸う。瞬間的に酸欠と炭酸中毒になり、呼吸反射が働いてさらに息を吸う。数秒で意識が失われ、まったく無抵抗に真後ろへ倒れる……後頭部を強く打って瘤ができる」 「ボンベか何かを押し当てたのなら、多少なりとも争ったあとがあるはずっすからね。爪の先もきれいなもんだ」 「爪の先?」 「女は相手を引っかくから、爪に相手の皮膚が残ったり、割れたりするそうですよ。本で読みました」 「多趣味だな」  わけ知り顔の国崎に答えてから、江綱は重苦しい気持ちで振り向いた。 「ミハルは完全に無防備な状態でピットに降りたようですよ、タカさん」  呼び出した相手をそれだけ信頼していたのだ、と思いながら江綱は言った。久保田は答えず、険しい顔で死体を見下ろしている。すると、児玉が久保田に向かって妙なことを言った。 「催眠術ってことはないでしょうか」 「催眠術だって?」 「誰かがミハルさんをトランス状態にして、ピットヘ降りるよう暗示をかけたんじゃ……」  意外な意見に一同は戸惑ったが、久保田は逆に聞き返した。 「誰かが、だって? タマちゃんはおれじゃないと思うのかな」 「だって……タカさん、ほんとにミハルさんのこと好きだったじゃないですか」  そう言った児玉の目は、かすかに潤んでいた。 「いくら可能性があるっていっても、タカさんが殺すなんて、私には考えられないんです」 「……ありがとう」  久保田はしばらくぶりに表情を和らげてうなずいた。 「それじゃあ、君は誰が犯人だと思うんだ」 「いえ。わかりません」  即答、と言っていいようなすばやさで児玉は首を横に振った。久保田はうなずいてから、他の三人に、いささか疲れたような笑みを向けた。 「信じてくれよ。おれがミハルを殺すなんて、天地神明に誓ってありえないよ」 「タカさん、ガチガチの無神論者でしたよね?」 「そのおれがここまで言うんだから信じてくれ」  国崎と久保田が顔を見合わせ、何かが通じ合ったように軽く笑った。  それを見て江綱も笑いたくなった。  ――そうだ、おれたちはこんなに仲がよかったのに、なぜ疑い合っているんだ。ひょっとしたら、おれたちの推理はまるきり見当はずれで、真相は偶然の不幸が積み重なっただけの、事故なのかもしれない……。  緊張のとけた空気の中で、久保田は美葉流を吊り上げるのに使ったロープを丸め、隅へ押しのけようとした。  そして動きを止めた。  彼は振り向いた。その目が、化け物にでも遭ったようにカッと見開かれていた。ロープを握った拳をわなわな震わせている。 「これは……そうか……栽培室……!」 「タカさん?」  江綱が声をかけた次の瞬間、久保田が大またに歩いて、泉の襟元をつるし上げた。 「ズミ! おまえか、おまえがやったのか!」 「はぁ?」 「このロープだ! これは農場で作物を束ねるやつだ! タマちゃん、これはどこにあった?」 「は、はい、あっちのマスク置き場の横にかかっていましたけど――」 「だろうと思った。これでミハルを吊るして、ピットの底に下ろしたんだろう? 突き落とせば傷が増えて、すぐに露見するからな!」 「何を言ってるんですか、ミハルさんを吊り下ろした? それもこの僕が? そんなことできるわけがないでしょう。やっても叫ばれるか、逃げられるのがオチですよ!」  泉が痩せぎすの体をあえて誇示するように両腕を広げると、久保田は唇を歪ませて泉に顔を近づけた。 「下ろす前に殺してあったんだ」 「意味がまったくわかりません」 「わからないわけがないだろう、おまえの知力で。低酸素栽培室、と言ってもか?」  そのひとことで、泉が顔色を変えた。他の何よりも、その変化が真相を語っているように思われた。  それでもうまく飲み込めず、江綱は久保田の肩に手をかけた。 「待ってくれ、タカさん。ズミを下ろして、説明してくれ!」 「説明するほどのことでもない。美葉流はCO2[#「2」は下付き小文字]で殺されたんじゃないんだ。農場で」  振り向いた久保田の顔が、嘔吐をこらえるように歪んだ。 「農場で、酸素を奪われて殺された。作物の成長促進用の気密室でな……」        3  人の仕事にのべつ幕なしに手を突っこむ人間が、好かれるわけがない。  しかし蓮台美葉流はそれをやってしまった。実験が五ヵ月をすぎたころから、他人の仕事のアラをあげつらうようになり、しばしば黙って手を加えた。メンバーの不満は徐々に強まり、お互いの関係までぎくしゃくしてきた。  見かねた江綱は何度か注意した。美葉流も最初は従った。だがそれは向日葵に伸びるなと言うのと同じことだった。美葉流はすぐにまた人の仕事を奪い、仲間の不興を買った。江綱はついに、会議を開いて全員の前で問題を取りあげることにした。  あれが悪かったのだろう――と江綱は思う。いや、定かではないが、ともかくいい結果にはならなかった。会議の席で、美葉流はなんとリーダーの交代を提案したのだ。自分がリーダーになってすべての計画を立て直したほうが、電気も酸素も食料もずっと効率よく回せると言った。資料を出してプレゼンまがいのことさえ行った。  だが、その結果は五人一致での拒否だった。美葉流以外の全員が、江綱のリーダーシップを支持したのだ。  それ以来、BOX‐Cの人間関係は壊れてしまった。美葉流はめったに江綱たちと口を利かなくなった。ただ一人、久保田とだけは交際を続けていたそうだが、彼も美葉流の癇癖《かんぺき》には手を焼かされていたようだ。  意思疎通が不完全になったことで、当然、BOX‐Cのメンテナンスにもさしつかえが出た。外部に知られると実験を中止させられる恐れがあったので伏せていたが、近頃では化学処理室の気体が漏れるのは珍しくなくなっていたし、農場でも作物の世話や収穫を失敗することがたび重なっていた。  低酸素栽培室は泉が細心の注意を払って管理していた、C3植物の成長を早めるための部屋だ。C3植物とは穀類や豆類のことで、酸素濃度の低い環境を好む。そのために、この部屋では二酸化炭素濃度はそのままながら、酸素分圧を減らして窒素で補う操作が行われていた。  この部屋のポンプを、つい先週に美葉流が誤って壊した。連絡の不備が原因となった事故のひとつだった。当の美葉流とともに、泉はそれを一週間かけて修理したそうだが……。  ――恨んでいたのか? ズミ。  BOX‐Cの一階南端にある広々とした農場。高効率LEDライトのまばゆい光の下で、整然と並んだ腰の高さほどの水耕パレットに、青々とした葉がうるさいほど繁茂している。奥まった一角に二重のビニール幕で囲まれた栽培室があり、その入り口で泉がしゃがんで頭を抱えている。 「ズミ」  江綱は声をかけた。泉は反応しない。もう一度、やや強く言う。 「ズミ、何を座りこんでいるんだ」 「もし僕がこれをやったとしたら、手抜かりなく実行できるかどうかと思いまして」 「やったのか?」  ぎょっとして江綱が問うと、泉は顔を上げて、こわばった薄笑いを浮かべた。 「やってませんよ。でも考えてみたら、僕なら可能なんです。農場はピットほど不自然な場所ではないから、口実を設ければミハルさんを呼び出せる。低酸素栽培室にも警告ランプはありますが、ツナさんが発見したようにセンサにアルミテープを貼れば黙らせるのは簡単だ。ミハルさんを部屋の入り口まで呼び出したら、軽く突き飛ばすだけで室内に押しこめる。あとは入り口を閉ざして――待つだけです。何の痕跡も残らないでしょう」 「そこまで周到な人間が、ロープを化学処理室に忘れたりするのか」 「どんなに周到な人間でも、ケアレスミスはしますよ」 「おまえ、やっていないんだろう? 疑ってほしいのか?」  泉の投げやりな態度が不愉快で、江綱は叫んだ。すると泉も叫び返した。 「やってはいませんが、事実を隠蔽する気もないと言ってるんです! 僕は自分に不利なことだって隠したりはしない。それが僕のポリシーですよ!」  泉の顔は引きつり、今にも泣き出しそうだった。そういえば――と江綱は思い出す。  こいつは、こういうやつだった。技術バカで人の心の機微には疎いが、基本的には正直でまっすぐな男。ミハルに栽培室を壊されたときも、文句は言っていたが、陰にこもって恨んでいる様子はなかった。恨んでもメリットはない、という考え方をするタイプなのだ。  ――こいつはやってないな……。  だが、性格や動機の点で言えば他のメンバーもたいして変わりはない。全員が信頼できる性格だったし、にもかかわらずミハルになんらかの不満を抱いていたし、晩餐会では彼女に罵倒された。だめだ。動機など考えていっても埒が明かない。合理的な理屈と確かな事実だけをもとに考えなければ。  といっても、指紋の採取や遺体の解剖ができない自分たちには、できることは限られる。メンバーの手前、謎解きが可能であるかのような見得を切ったが、江綱は実のところ、難しいような気がしてきた。 「ミハルは窒息死した。この施設の中で、人間をおびき寄せることができるほど大きなガス溜まりは、ピットか栽培室だけだ。……それとも他にあるか?」  江綱が無意識にそうつぶやくと、意気消沈していた泉がぼそりと言った。 「ありませんよ。ミハルさんが死んだのはそのどちらかです」  江綱は彼を見たが、別段協力してくれたわけではなく、やはり事実を告げただけ、のようだった。  腕時計を見る。美葉流を引き上げるのに手間取ったので、いつの間にか午前六時をすぎていた。眠気はまったくないが、体はどうしようもなく重い。  栽培室から、中を調べていた久保田と国崎、児玉の三人がぞろぞろと出てきた。江綱の視線を受けて、首を左右に振る。 「特に痕跡らしきものは見当たらなかった」 「でしょうね。僕が犯人だったら痕を残すわけがない」 「おまえ……」  久保田がにらみつけ、泉は目をそらした。険悪な雰囲気を感じて、江綱は言った。 「タカさんに聞きたいんですが、足音には気づかなかったんですか。ズミがやったなら、あんたの部屋の前を通ったはずだ」  個室の入り口は、空気の流通を確保するためと、疎外感を作らないために、全室カーテン掛けになっている。だから、室内からは部屋の前を通る人間の足が見える。そして一階にある個室は児玉、久保田、泉の三つだ。泉の部屋が農場の隣なので、そこから処理室へ向かうには残る二人の部屋の前を通るしかない。  久保田は首を振る。 「おれは寝てたって言っただろう」 「じゃあタマだ。タマ、部屋の前を誰か通ったか」 「いえ、誰も……」 「タマちゃん、寝てたんじゃなかったの?」  国崎が尋ねた。なんの気なしに口にしただけのようだったが、その結果は意外なものだった。児玉は目を泳がせてつかえながら言ったのだ。 「え? あ、そう、そうです! 寝てました私、二時ごろは。何も聞いてません!」  江綱たちは、奇妙な目で児玉を見つめた。国崎が言った。 「聞いたの?」 「何を!?」 「いや、わかんないけど」  そう言ってから、国崎は眉をひそめて児玉の顔をまじまじと覗きこんだ。 「タマちゃん、あれ、おれだったんだよ」 「え? そうだったんですか?」  児玉がそう言ったとたん、国崎はせわしなく瞬きした。そして顔を上げると、左右のメンバーを見て、ゆっくりと言った。 「ほら。やっぱり何か聞いてたんですよ」 「えっ……今の、ひっかけですか」  児玉は短く息を呑んで、つぶやいた。国崎がうなずく。 「ごめんな、タマちゃん、さっきからどうも変だったからさ。やたら必死に自分じゃないって言い張るし、その割にはタカさんでないことを確信してるみたいだったから……」  国崎は、残念そうにささやいた。 「ズミちゃんと二人でやった?」  久保田がハッと驚いた顔でつぶやく。 「そうか……それなら死体も運べる」 「ちょっ、タカさん!?」  児玉が言い、泉が立ち上がった。次の叫びはほとんど同時だった。 「そんなことしてません!」「共犯なんか頼みませんよ!」 「じゃあ、おまえは何を聞いたんだ、タマ」  そう尋ねるとき、江綱はむしろ、物悲しい気分になっていた。国崎に言われて気づいたが、昨夜から児玉の様子は明らかにおかしかった。彼女が自分の部屋へ訪れたのも、その予兆だったのではないだろうか。止めてほしかったのかもしれない――。 「何を聞いたんだ?」  江綱は児玉の両肩をつかんだ。児玉の瞳が揺れる。そんなに怯えたような顔をする彼女を、江綱は今まで見たことがなかった。疑いが確信へと変わっていく。 「さあ、話してくれ。聞きたいんだ。何があったのか、なぜ言ってくれなかったのか……」  ――恋人のおれに。  児玉が苦しげに顔を背けて、ささやいた。 「……どうしても言わなきゃだめですか?」 「言うことがあるんだな?」  江綱が顔を寄せると、児玉は息苦しくなったように何度か深呼吸してから、さっと振り向いた。覚悟を決めたように江綱を見つめ返す。 「じゃあ、言います。二つあります。ひとつは――二時ごろ誰かが階段を昇り降りする足音を聞いたってことです。私、べツドの中でそれを聞きました。べッドからは部屋の入り口は見えないんですけど、周りの音は聞こえますから」 「階段を?」  江綱は息を呑む。児玉の部屋は階段の隣だ。足音が聞こえてもおかしくはないが――。 「待て、昇り降り[#「昇り降り」に傍点]だって?」 「そうです。誰かが階段を降りてきて、しばらくしてから、昇っていきました。降りてきたのは間違いなくひとりです。昇っていったのも、たぶん」 「ツナさん……?」  江綱を見た国崎が、顔をしかめてまた児玉に目を戻した。 「待て、タマちゃん。そりゃおかしいじゃないか! 降りてきたのはミハルさんだろう。現にピットで死んでいたんだから。でもそれなら、昇っていったのは[#「昇っていったのは」に傍点]誰だ?」 「わかりません! 私は事実を言っているだけです!」  悲鳴のように言い返してから、児玉は深呼吸して必死に口調を抑えて言った。 「もうひとつ……もうひとつ、言いますね。私、寝る前の十一時すぎ、娯楽室の片付けをしている最中に……」  児玉は江綱を見た。その顔が泣き笑いのようにくしゃくしゃと歪んでいった。 「廊下を見たんです。ツナさんがミハルさんの部屋に行ってました。なぜですか? 何をしていたんですか? ツナさん」  ――見られていたのか。  一同の視線が集まる中、江綱は背筋に冷たいものを感じていた。そんな江綱の顔をじっと見つめていた児玉がつぶやいた。 「やっぱりそうなんだ」  そしてよろよろと近くの壁に歩み寄ると、そこに頭を預けてしゃくりあげた。  そんな児玉を見て、江綱は胸の痛みを覚える。――様子がおかしかったのは、おれを疑っていたからか。自分にやましいことがあったんじゃなかったんだな。  久保田が硬い表情で言う。 「本当か、ツナ」 「……ええ」 「何をやった?」 「晩餐会のことについて話し合いにいっただけですよ」 「それがこじれたのか?」 「待ってください、おれはやってません。おれは――」  江綱が言いかけたとき、一人がいきなり拳を固めて彼の頬を殴りつけた。がっ、と鈍い音とともに江綱は壁に叩きつけられ、険しい目で相手をにらみ返した。  他の者は驚いた。殴ったのは――国崎だったからだ。  いつも軽薄なほど陽気でありながら、電気系統についての確かな知識でクルーの仕事を助けてきた男が、怒りで顔を朱に染めて江綱をにらんでいた。 「ツナさん、そりゃないっすよ……あんただけは間違いないと思ってたのに、今さら『嘘ついてました』ですか。それじゃ、おれたちはいったい誰を信じたらいいんすか!?」  国崎の叫びは、全員の気持ちの代弁だったかもしれない。久保田も、次々と持ち上がる疑惑に疲れ果てたのか、力ない様子で言った。 「ツナ、なんで今まで黙っていたんだ」 「言う必要がないと思ったからですよ。おれは部屋には入ってません」 「入ってないだと……」  久保田がいぶかしげに言い、児玉が振り向いた。 「ノックしただけなんですよ。ミハルは返事をしなかったし、電気もすでに消していた。だからあきらめて部屋に戻ったんです。――なあ、タマ。そうだろう? おれはミハルの部屋の外に突っ立っていただけだ。それとも、入るのを見たとでも言うのか?」 「いえ……」  顔を向けた児玉が、涙を拭ってから意外そうに言った。 「私が見たのは、ツナさんがずいぶん長い問ミハルさんの部屋の前に立っていたところだけで……少し目を離して、次に見たらいなかったので、中に入ったと思ったんです。入らなかったんですか?」 「入ってない」  江綱は肩をすくめ、じんじんと熱を持つ頬を押さえて、国崎に目をやった。 「話は最後まで聞けよ、ブイ。おまえにしちゃ早とちりだな」  国崎はこわばった顔で向こうを向いていたが、つと歩き出した。「おい、ブイ?」と江綱が声をかけると、栽培室の出口でちらりと振り向いた。 「ちょっと、一人にしてください。みんなの顔見てると、誰が犯人なのか落ち着いて考えられないんで」 「僕も。部屋で考えてきます」  泉もそう言って立ち上がった。二人は農場を出ていった。江綱が呆然としていると、今度は久保田が言った。 「おれはミハルのところに行く。何かあったら呼んでくれ」  そして、のっそりと出て行ってしまった。  江綱はため息をつき、ただひとり残った仲間に目を向けた。 「すまんな、タマ。さっきのこと、黙ってて」  そう言って肩に触れようとすると、児玉はスッと身を離した。 「ツナさん、私もわけがわからなくなりました」  見上げる瞳に、言いようのない不安が揺れている。 「さっきの、本当なんです。誰か一人が降りてきて、また戻ったっていうの。だとすると、ミハルさんが降りてきた後に、他の誰かが昇っていったことになる。下にいたのはズミさんかタカさんだけでした」 「ズミは、ずっと下にいたよ。おれとブイが警報を聞いて降りてきたとき、処理室から出てきた」 「じゃあタカさんってことになります。昇っていってから、二階のどこかに隠れていたのかも。そして警報が鳴ってから降りてきたのかも。でも、なんのためにですか。なぜ隠すんですか? 私には想像がつきません」 「確かにわけがわからんが……」 「タカさんではなくツナさんだと思えば[#「ツナさんだと思えば」に傍点]、数が合う[#「数が合う」に傍点]んです」  江綱は息を呑んだ。児玉は、わずかに手の届かないところにたたずんで、話す。 「ツナさん、ミハルさんの部屋に声をかけましたよね。その後で部屋に戻らず、下へ降りてどこかに隠れ、ミハルさんを待っていたとすれば――その後で私が部屋に戻り、べッドに入ってから、ミハルさんが降りてくる足音を聞く。ツナさんが昇っていく足音を聞く。ほら、これで計算が合うんです」 「ただの空想だ。おれはそんなことをしていない」 「私もそう信じたいです。でも願望で事実を曲げちゃいけないと思うんです。私の考えでは――階段を昇ったのはブイさんがツナさんのどちらか。そしてミハルさんを呼び出したのは、ツナさんです」  江綱は身を硬くした。児玉が胸に飛びこんできたからだ。江綱を強く抱きしめて涙声でささやく。 「言ってください、ツナさん! もしやったなら、私にだけは教えて! 私にだけは――」  声を震わせて訴える女を、抱きしめてやりたいという気持ちが強く湧いた。しかし同時に、その女から人殺しだと思われている、というショックで江綱は動けずにいた。  ぎこちなく手を肩に当てて相手を引き離し、江綱は苦しい気持ちで言った。 「おれは、やってない」 「じゃあ教えてください! 誰がやったのか!」 「わからん」 「ツナさん……」  呆然と見つめる児玉の瞳に、ありありと絶望が浮かび始めたのを見ていられず、江綱は顔を背けた。 「信じてくれ。おれは……」  それだけ言うと、江綱は逃げるようにその場から立ち去った。        4  得体の知れない怒りに駆られて施設内をやみくもに歩いた。自室に戻るのは逃げ帰るようで耐えられず、その前を素通りして娯楽室に入った。  そのとたんに、何か強烈な、ほろ苦いもやもやしたものが胸元にこみ上げて、息が詰まった。  最初は、何が起こったのかわからなかった。木製のテーブル――久保田と美葉流が資材から手作業で作りあげたものだ――にふらふらと両手を突き、肩を上下させる。顔を上げると、こまごまとしたものが目に入った。国崎と泉がしょっちゅう対戦していたTVゲーム。児玉が作って壁にかけた七夕の笹や月見団子を乗せた三方《さんぼう》。食器棚には大きさの違う六人分の茶碗が雑然と積んである。奥には何度も使った卓球台やトレーニング機械が並び、正面の壁に巨大な月面全図が貼ってある。  そして、その図の上に、デジカメで撮って印刷した六人の集合写真が、べったりとかぶせてあった。  ――失われてしまったもの。  それが、胸にこみ上げたものの正体だった。八ヵ月もの間、殺された美葉流も含めた六人で、まがりなりにも築き上げてきた親密な暮らし。それらはすべて、あるひとつの共感のもとに成り立っていた。  生きている間に、遠く離れた未知の衛星に降り立ちたいと願う気持ちだ。  宇宙にあこがれる人間は多くても、本当に人生を賭ける者は多くない。そのための十分な能力を持つ者にいたってはさらに少ない。昔も今も、たどりつくのは常に勝ち残ってきた者だ。だから宇宙を目指す者の間には、強烈なライバル意識がある。  しかしBOX‐Cのクルーは、そのライバル意識を、共感と紐帯《ちゅうたい》へ奇跡的に昇華させたチームだった。月へ行く最初の二人を誰にするかという点で、仲間の足を引っ張った者は一人もいなかった。あの美葉流ですら、壊した泉のポンプを自発的に修理した。月へ行きたいのはもちろんだが、この仲間のうち誰かがその栄誉を担うならば、それでもかまわない――彼女も含めて全員がそう願っていた。そうだったに違いないと江綱は信じていた。  その考えが、間違いだったのかもしれない。  美葉流を月へなど行かせたくないと、心底から考える者が、五人の中にいたということだろう。  打ち砕かれた願望が心のうちに突き刺さる。江綱は長い間、仲間たちのいない娯楽室で立ちすくんでいた。  だが、じきに部屋の隅のカーテンで仕切られた小部屋へ向かった。BOX‐Cの機器類を集中制御する管理室である。足取りは強く確かだ。  管理室に入ると、江綱は放送機器の電源を入れて、マイクを握った。 『聞こえるか、江綱だ』  朝の明るい空の下、ひとつの死体と落胆した五人を収めた白亜の密室の中に、声が響き渡った。 『おれからひとつだけ、頼みがある。――みんなに、じゃない。ミハルを殺した犯人にだ』  小さく唾を飲んで、江綱は語りかけた。 『おまえの目的がなんだったのか、確かなところはわからない。だが、おまえがやったことの結果については、おれにも想像ができる。前に言ったとおり、この事件は月面計画に重大な影響を及ぼすだろう。そしてチームリーダーのおれは、管理責任を問われて間違いなく計画を下ろされるだろう。すでに殺人が行われてしまった以上、それは避けられない。これについては、あきらめるしかない』  短く言葉を切って、『だが』と江綱は言った。 『おれには、そして犯人のおまえには、まだひとつだけできることがある。それは、他の三人を救ってやることだ。――三人には何の罪もない。ここで自分が手を下したわけでもない殺人事件に巻きこまれ、そのままアストロノートとしてのキャリアを断たれるのでは。あまりにも気の毒だ。飛行士の意欲と素質がどれだけ貴重なものか、知らんおまえじゃあるまい。それがここで失われてもいいと、本当に思っているのか』  放送機器の横の壁に、内線番号の書かれた施設の見取り図示、黄ばんだテープで貼ってある。それを見て、あちこちに孤独に散らばっている仲間たちのことを江綱は思う。  ――久保田、児玉、国崎、泉。おまえたちの誰に向かっておれは言っているのか。考えたくない。誰であっても苦痛だ。  だが、言わないわけにはいかない。 『事件が公になれば、日本の月面計画に疑問符が付き、チームは解体されるだろう。だがまだ、次の計画[#「次の計画」に傍点]というものがある。それに海外の計画[#「海外の計画」に傍点]もある。人間は計画から計画へ移ることができる。残りの三人には、是が非でもそうやって、宇宙への道を歩み続けてもらいたい――』  そこまで言ったとき、鼻の奥がツンと痛んだ。涙がこみ上げ、江綱は机を力いっぱいドンと叩いた。見取り図のテープがはがれ、ひらりと落ちた。 『――三人だと。六人でやってきたおれたちのうち、たった三人だと! おれは、おれはみんなで行きたかったんだ! 久保田さん、児玉、国崎、泉、それに蓮台美葉流! みんな、みんな月へ行けるやつだと思っていた。誰が最初に行くにしろ、結局は全員が行くものだと思っていた。それが……ちくしょう、おれはここで終わりだ。美葉流も無残に終わった。そして、おまえもだ! なんてことをしやがったんだ! おまえが脱落する[#「おまえが脱落する」に傍点]のを、喜ぶ人間がいるとでも思ったのか!』  デスクにぼたぼたと涙を落としながら喚《わめ》き、江綱はしばらく言葉を切った。荒くなった息を懸命に整えて、先を続ける。 『……わかったか。おまえには、まだできることがあるんだ。頼むから名乗り出てくれ。そして、他の三人にチャンスを与えてやってくれ。おれや、おまえに代わって月へ行けるように――以上だ』  江綱はマイクをオフにして、長々とため息をついた。  実際のところ、楽観はしていなかった。今まで、四人のうち誰一人として、犯人らしい動揺を見せはしなかった。それだけ確信を持って、強固な意志で他人を欺いているに違いない。泣き落としなど無意味だ。  江綱は、どうしても言いたいから言っただけだった。  感情を吐き出した後には、重苦しい疲労感が残った。寝不足と過労がじわじわと心身を蝕んでいた。時計を見れば、八時をすぎたところだった。  あと一時間もしないうちに、この失態が世間に知らされる。八ヵ月を生き抜いたチームが――それ自体、閉鎖環境での長期滞在実験としての日本記録なのだが――罵倒と嘲笑を浴びることになるのだ。  せめて部屋の乱れた有様ぐらいはさらすまい、と児玉のようなことを考えて、はがれ落ちた見取り図を拾い、壁に貼りなおした。疲労のせいか書いてある字が読めなかった。  それが疲労のせいではなく、上下をさかさまに貼ってしまったからだと気づくまで、数秒かかった。江綱はそれをはがして、貼りなおそうとした。  突然、彼はそれを机上に押しつけ、食い入るように見つめた。口が半開きになり、あおう……というような、呆けたうめきが漏れた。 「こっちだったのか……?」  しばらくそうしていてから、江綱は震える指で再びマイクのスイッチを入れて、言った。 『江綱だ。これから化学処理室へ行く。そこで待ってるぞ』  一階の化学処理室へ入ると、意外なことに誰もいなかった。美葉流はきちんと手足をそろえられて、顔の上に男物のハンカチがかけてあった。久保田のしわざだろう。  江綱は、ピットに立つ壊れた多段反応タンクに近づいた。この装置の保守は久保田の仕事で、泉が補助についていた。  背後で音がしたので振り向くと、泉のほそっこい姿が現れたところだった。江綱はまるで普段の業務のさなかのように、肩越しにタンクを指差しながら声をかけた。 「ズミ、こいつの故障ログは、いま見られるか?」 「え?」  泉は戸惑った顔をしたが、やがておずおずと携帯端末を手にして記録を呼び出した。江綱は横からそれを覗きこむ。 「いつ壊れた?」 「昨夜の二時すぎですね。二時六分からCO2[#「2」は下付き小文字]の圧が下がってる」 「こっちのグラフはなんだ」 「これは水素投入量です。あれ、変だな」  泉は端末をすばやく操作し始めたが、江綱は手を伸ばし、そっとそれをもぎ取った。「ツナさん?」と眉をひそめる泉に、首を振る。 「貸してくれ。これ、積算はできるな?」  江綱が端末を操っていると、入り口で人の気配がした。入ってきたのは国崎と児玉だ。互いに目を合わせようとせず、江綱の近くまで来る。江綱は国崎に目を向けた。 「マスク、片付けたのか?」 「はあ、まあ」 「そうか。――タマ、あんまり奥へ行くな。今度どこかで漏出があっても、もうマスクはないぞ」  奥のタンクのほうへぶらぶらと入りかけていた児玉が、あわてて戻ってきた。  そこへ、久保田もやってきた。江綱は計算を終えて端末を下ろす。こぶしひとつ背の高い久保田が、先に口を開いた。 「すまん、ツナ」 「何がです」 「おまえを疑ったことだよ。あれは取り消す。犯人にあんな演説はできない」 「だいぶ本音が出てしまいました。どうしても月へ行きたかったんでね」 「ああ、気持ちがよく出てた。わかりきったことだったな。ミハルを殺して一番不利益をこうむるのがおまえなんだ。おまえであるはずがない」 「その伝で行くと同じように熱心な国崎も除外ですね」 「そうっすよ」  国崎が仏頂面で頭をかきながら言った。久保田はゆっくりと、残る二人に目を向ける。 「さて……」  泉と児玉は、その視線を受けても、もう動揺しなかった。二人ともすでに一度疑われている。まだ何か疑う材料があるのか、と言わんばかりに久保田の視線を受け止めた。  そんな二人を見て、江綱は言った。 「ズミ、タマ。ちょっとマスクをここへ持ってきてくれ」 「マスク、ですか? それはさっきツナさんが、もう使えないって」 「いいから。その使用済みマスクを全部、だ」  二人は怪訝《けげん》そうな顔をしながらも、マスクを抱えてきた。江綱は新しい指示を出す。 「じゃあ、それをひとつずつ床に並べて。落としたりするなよ」 「何の意味があるんですか?」 「すぐにわかる」  二人は六つのマスクを並べた。それが済むと江綱は言った。 「使用済みマスクはいくつだ、タマ」 「六つでしょう」  児玉は当たり前だと言わんばかりの顔をする。江綱は首を振った。 「ミハルは使っていない。おれは彼女のためにひとつ持ってピットに降りたが、ひと目で手遅れだとわかったから、酸素ボンベを開かなかった」 「そうなんですか。じゃあミハルさんのが残ってるわけですね」 「いや、違う。ミハルのボンベはブイが使った。残っているのはブイのやつだ。そうだったな、ブイ」  目を向けられた国崎が、そうっしたっけ、とせわしなく瞬きした。江綱はマスクに目を戻して言った。 「ズミ、ボンベを確かめてくれ」 「はあ」  しゃがんで順番にボンベのバルブを見ていった泉が、不思議そうに振り向いた。 「ありませんよ、未使用のボンベ。これ、全部使用済みです」 「そうか。じゃあブイが二回使った[#「ブイが二回使った」に傍点]ということだな」  江綱は泉の顔をじっと見つめた。泉が眉根を寄せた。そして突然目を見張り、国崎を凝視した。  児玉が、尋ねようとした。 「二回って、いつ――」  そして彼女もまた、驚愕の目で国崎を見た。二人の驚きに気づいた久保田が、はっとした顔で江綱に向いた。 「ツナ、まさかおまえ……」  江綱は淡々とした口調で言った。 「これから事実だけを挙げますよ。おれが警報を聞いてピットに降りようとしたとき、ブイが三つのマスクを持ってきた。その中からおれのものをおれに渡し、ミハルのものを自分で使い、自分のものをおれに取られたが、特に何も言わなかった。ブイ、そうだな」  国崎は呆けたように突っ立っていたが、「はい、でも――」と答えようとした。それをさえぎって江綱は言った。 「でも、ミハルのマスクを使ったのは単なる間違いだった、と言いたいのか?」 「はあ。おれのは――」 「間違いではありえない。なぜならおまえのマスクが使用済みだからだ。持ち主のおまえは当然それを知っていたはずだ。間違いでミハルのマスクをかぶったなら、それが自分のではないと気づいて、おれがおまえのマスクを持って行くのを制止したはずだ。空っぽのボンベでピットの中の人間を助けることはできない、とな。だがおまえは制止しなかった。どうしてだと思う?」  江綱は児玉たちに目をやった。すると泉が困惑に顔をゆがめつつ答えた。 「ミハルさんがすでに完全に死んでいることを知っていたから――と言いたいわけですか」 「そうだ」 「ということはツナさんは、僕たちが駆けつける前にブイさんがすでに自分のマスクを使っていた、と言うんですね?」 「そうだ」 「自分の言ってること、わかってますか? ブイさんはあなたのあとから化学処理室に入っていったじゃないですか。いつ使うひまがあったんですか?」 「そうですよ――」  児玉も同調し、強くうなずいた。国崎が、息を吹き返したように口を開く。 「勘弁してくださいよ、おれじゃないですって。晩餮会でめっちゃ嫌われてたの見たでしょ? 引きずったってピットまで来ませんよ、あの人」 「わかってる。おれも、ブイがピットヘ呼び寄せたなんて言わんよ」  それを聞いて、国崎がほっと息をついた。 「ブイは二階で殺したんだ」  今度こそ、この場の空気が凍りついた。――江綱自身も、強い喉の渇きを覚えながら、一言ずつ区切るように話していく。 「ブイはミハルを、ピットではなく中央階段の上の塔屋に呼び出した。あそこはミハルの部屋のすぐ近くで、大声を上げればおれの部屋にも届く。ミハルもさほど警戒せずに向かったことだろう。そして、そこで殺された。ブイはみんなが寝静まるのを自室で待った。そして二時すぎに、あらかじめ持ち出してあった自分のマスクをつけて塔屋へ昇り、ミハルの死体を担いで一階に降りた。用意してあったロープで死体をピットに吊り下ろし、センサにテープを貼ってからタンクのバルブを壊してCO2[#「2」は下付き小文字]を漏出させ、部屋に戻って警報を待った。――タマが聞いたのは、その足音だ。ミハルをかついでいたから一人分しかなかったんだ」 「そんな……おかしいでしょう。あそこは建物の一番上ですよ。二酸化炭素なんか、どうやって溜めたんです? それに、そんな大がかりな仕かけを、一体いつ?」  反論する児玉に、江綱は静かに告げた。 「二酸化炭素じゃない。水素[#「水素」に傍点]を使ったんだ」  それがとどめとなった。その場の誰もが、身じろぎもしなくなった。 「空気より軽い水素を塔屋に溜めて窒息させたんだ。換気のいい普通の工場や現場でそんな事例が起こることは皆無だから、おれたちは見逃しがちだが、水素も二酸化炭素と同じ窒息性のガスだ。宇宙施設レベルで気密されたBOX‐Cでは、水素も滞留する。その出所は――」  江綱は先ほどから手にしていた携帯端末をかざして、背後の多段反応タンクを指差した。 「あれだ。サバチエ反応装置。いま計算したら、あそこから塔屋を十分に満たすほどの水素が漏れていた。不調だったんじゃなくて、意図的に水素配管を壊してあったんだ。おそらく水素センサもだましてあるだろう。二酸化炭素が建物のどこで漏れてもピットに沈むのと同じように、水素は放っておけば自然に塔屋へ上がっていく。多少は換気で持っていかれるだろうが、時間をかければ十分な量が滞留する。つまり、装置が不調になり始めたずっと前から、この計画は始まっていたということだ」 「ってことは、いまここの上には、爆鳴ガスがたっぷり溜まってるってことですか!?」  児玉が悲鳴のような声を上げた。爆鳴ガスとは空気と水素が最適な比率で混合したもので、小さな火花が飛んだだけで凄まじい爆発を起こす。水素と聞いて技術者が連想するのは、窒息よりもまずこちらのほうだ。児玉の反応は当然だった。  江綱はゆっくりと首を振る。 「人を殺すほどの水素濃度だ。酸素不足でかえって爆発は起きにくいんじゃないかな。慎重に換気すれば大気中へ逃がせるだろう。これだけのことを考えついたんだから、当然そこまで計算したと思う。そうじゃないか? ブイ」  江綱は国崎を見つめた。彼の様子は、意外なほど平静に見えた。顔色は多少白っぽくなったが、うろたえたり暴れたりする様子はない。そんな彼が口にするのは、今までどおりの、陽気な文句でなければならなかった。  だが国崎は、苦いものでも舐めたように何度も唾を呑みこみながら、きしむような声で言ったのだった。 「完璧っすね――ツナさん――だからあんたは苦手なんですよ。みんながみんなを疑うところまで行ったのに、あんた一人で立て直しちまった。ちっ……ほんと、この野郎、だ」 「じゃあ、やったんだな、ブイ――」 「いや、一点だけ違いますがね。買いかぶりすぎっす。おれば水素量の厳密な計算なんかしてません。ミスったならミスったで、吹っ飛んじまえばいいと思ってました」  無残にこわばった笑顔で国崎が言う。江綱はたまらなくなって、彼に詰め寄った。 「なぜだ、なぜこんなことをした。ブイ、この馬鹿野郎! そんなにミハルが憎かったのか? 月に行かせたくなかったのか!」 「別にあの人が行こうが行くまいがどうでもよかった。それに、行くならあんたとでも構わなかった。ただ、ここにはあんたとミハルの二人がいた。……言ってみりゃ、それが理由ですね。あんたのリーダーシップは地味だけど頼りになるものだったし、ミハルはミハルで、人間性の欠陥を補うだけの天才があった。このまま行けばあんたたち二人か、あるいはそのどちらかが、日本人として初めて月の砂を踏むことが確実だった。その自覚ぐらい、うすうすあったでしょ。ないとは言わせませんよ」 「一番乗りの権利がほしかったのか。それで事故に見せかけてやったんだな」 「ほら、ほら! その態度! 日本史に、歴史に永久に名を残すチャンスを、あんたはたいしたことじゃないみたいに! ほんとに欲がなくて――わかってねえな、くそっ!」  国崎はひと声悲痛に叫ぶと、がっくりとうつむいた。また殴りかかって来るのでは、と江綱は警戒したが、やがて顔を上げた国崎の顔には、自虐の薄笑いが貼り付いていた。 「誰が事故に見せかけました? アルミテープのことっすか。あれを見て事故だと思う人間なんかいますかね? そんな風に見せかけたんじゃない。最初から誰かが殺したみたいに見えるようにやったんすよ。おれが細工したのは罪を逃れるためなんかじゃありません。最初から自分に――」 「自分に、月へ行く目がないのがわかったから、それぐらいならいっそ他の全員の足を引っ張ってやれと、思ったんですね」  そう言った泉を国崎は感心したように見つめてから、神経質そうな笑いを漏らした。 「そうだよ、ズミちゃん。よくわかったね」 「僕もそう思ったことがありますから。――でも、同情はしませんよ」 「私も……そう思ったこと、ある。でも人を殺してまでっていうのは、おかしいと思う。ブイさん、あなたが一番乗りの資格をなくしたのは、これまでの八ヵ月じゃなくて、ミハルさんを手にかけた瞬間だったんだよ。それまでは私たちと同じだったのに――」  泉と児玉が口々にそう言うと、国崎の顔から笑いの最後の一片が消えていき、苦痛のゆがみだけが残った。  江綱はそんな国崎の顔をじっと見つめて、言った。 「最後に何か、言うことはないか」 「最後って?」 「警察に自首する前の最後ということだ。こいつらに言っておくことは?」  児玉、泉、久保田の三人を江綱は示す。そこに江綱ははかない希望を抱いていた。せめて最後に、仲間だった連中への謝罪の言葉ぐらいは聞けないものかと。  すると国崎は不思議なものでも見るような目で江綱を見つめて、つぶやいた。 「今さら、なんで?」  いきなり国崎は身を翻した。久保田を突き飛ばして処理室から飛び出し、階段を昇っていく。 「ブイ、待て! 早まるな!」  とっさに江綱は叫んで、追いかけた。このうえ彼がやりそうなことなど、あとひとつしかないように思えた。  二階まで駆け昇ったが、足音がさらに上へ昇っていくのを聞いて、舌打ちしたくなった。塔屋には、まだ水素が丸のまま残っているはずだ。息を詰めて二階で待っていると、録音を倍速で聞いたときのような、奇妙な甲高い叫び声がした。 「さよならだ、ツナさん!」  数秒もたたないうちに、何かの倒れる重い音がした。江綱の後から昇ってきた泉が、早口に言った。 「今の甲高い声、間違いなく水素を吸ってます。ヘリウムボイスと一緒ですよ。すぐ助けないと死にます」 「タカさんは?」  江綱は聞いたが、泉は黙って首を振った。恋人を殺した男など勝手に死ねばいいと久保田は思っているのだろう。その気持ちはわかる。  だが、江綱はそこまで割り切れなかった。とにかく死なせるわけにはいかないという強い衝動があった。同情ではなく、ましてや事後のことを考えた打算でもなかった。  トラブルが起きたら、それがなんであれ、経緯や感情は抜きにしてただちに解決しなければならない。さもなければチームの全員が危険にさらされる――BOX‐Cという、外界とは異なる特殊な環境で暮らすあいだに身についた対処の習慣が、江綱を動かした。 「ファンは発火するから危険だ。息を止めて引きずってくる。ズミ、後を頼むぞ」 「ちょっと、頼むって何を!?」  泉の悲鳴を背に何度か深呼吸を繰り返すと、江綱は早足で階段を昇っていった。  塔屋は照明が消してあり、暗闇の奥に人が倒れていた。手探りで腕をつかんで起こそうとすると、いきなり相手が動いて江綱の顔を殴るようなそぶりをした。驚いて避けた瞬間、江綱はつい、その場の気体を吸いこんでしまった。かすかに鉄《かね》臭い匂いのする冷たいガスだ。途端に肺が炭火を呑んだように熱くなり、猛烈に息苦しくなった。  何を考える間もなく二息目を吸ってしまった。酸素が足りず、切迫した呼吸を繰り返す。窒息につながる悪循環だ。割れるような頭痛が起き、手足から急速に力が抜けて、その場に倒れこんだ。赤く染まった視界に国崎の顔が映った。彼は目玉が飛び出るほどまぶたを開いて、笑っているようだった。  吸っても吸ってもまったく楽にならない気体を、ハッハッと犬のように舌を出して吸いこみながら、江綱は真っ赤な闇の中に沈んでいった――。  そばを誰かが荒々しく通り抜け、奥の壁へ向かった。ぼんやりと仰ぎ見ると、異様に頭の大きな宇宙人のような人影が、塔屋の壁にしがみついてもぞもぞと動いていた。おかしな幻覚だ、と思った。  そのとき、ギイッと重々しい音がしたかと思うと、まばゆい光と甘い大気が、どっとばかりに流れこんできた。そこに酸素があるとわかったとたん、江綱の体はいっそう激しく呼吸を繰り返し、貪欲にそれを吸収した。一度は消失しかけていた意識が徐々に戻ってきて、江綱は理解した。――塔屋のハッチが開かれたのだ。 「ツナ!」  頭にビニールの大袋をかぶった人影が江綱の顔を覗きこんだ。言うまでもなく、それは久保田だった。江綱の腋《わき》に腕を入れて屋上へと引きずり出す。八ヵ月ぶりの外界だった。八ヵ月ぶりの青空と朝の光が江綱を見下ろした。江綱はぐったりとしたまま、その広い世界を感じていた。さまざまなものを失った結果としてそこに出てきたのだが、なぜかとてもすがすがしい気分だった。  その隣に、もう一人の男が三人がかりで運ばれてきて、どさりと横たわった。荒々しい呼吸の音が聞こえたが、それもじきに収まっていった。二人の男は仰向けに横たわったまま、青空を眺めていた。  不意に、国崎が言った。 「月だ」  彼の指差す先、西の空の低いところに、少し欠けた白い朝月が浮かんでいた。国崎は食い入るようにそれを見ていた。江綱も同じように見つめた。じわじわと、胸に穴の空いたような喪失感が湧いてきた。  自分はもう、あそこには行けなくなったのだ。自然につぶやきが漏れた。 「ああ。――行きたかったな」  すると、しゃがれた声で相手が答えた。 「――なんで来たんだよ。危険だろうが、リーダー」 「知らんよ。でもおまえだってそうしただろ、ここが月なら」  もとより返事があるとは思っていなかったが、やがて彼がうなずく気配がした。  江綱が首を動かすと、国崎の横顔を涙が滑っていた。彼は月を見たまま言った。 「タカさん、警察呼んじゃってくれ」 「いいんだな」 「ああ、おれが背負う。だから、あんたらは」  国崎は穏やかな顔でゆっくりとうなずいて、目を閉じた。 「この人をあそこへ連れていけ」 [#改ページ] [#ページの左右中央] [#見出し]  くばり神の紀 [#改ページ]        1 「認知は断りましたから」  私が聞かれもしないのにそう言ったから、虎の絵の屏風の立つ重苦しい感じの玄関が、いっそういやな雰囲気になった。  どうにだってなればいい。私にとってはもともといやな雰囲気だ。屋敷の主人の愛人――妾《めかけ》っていうんだっけか――の娘。歓迎されるわけがない。さっきから集まった男や女や年寄りや若い人みんなが、いぶかしげな眼差しを私に向け、舌打ち混じりにひそひそ話をしていた。それで思わず、ひとこと言ってしまった。  私の斜め前にいた、シンデレラに出てくる継母の日本版みたいな感じのおばさんが、左の眉だけを一センチぐらい持ち上げてねっとりした口調で言った。 「じゃ、あなた――西沢《にしざわ》さんだっけ、なんで来たの。遺産目当てじゃないって言うなら」 「血のつながった人の死に目に会いに来るのに、理由がいるんですか? 礼儀です、人間としての。あなたたちと同じです」  私はできる限り冷静な声で、できる限りたっぷり皮肉をこめてそう言ってから、澄まして付け加えた。 「それと私、石沢《いしざわ》です。石沢|花螺《から》」 「カラ? ……変な名前」  言い捨ててプイと向こうをむいたそのおばさんを、よっぽどぶってやろうかと思った。私の名前にケチをつけるのは、亡くなった私のお母さんにケチをつけるのと同じだ。そんなやつを許してやったことはない。  そのとき、奥の廊下へ顔を出した男の人が、声をかけてこなければ、私はほんとにそうしていただろう。 「お静かに願います――当主はもう、あまり」  目立たない灰色の背広姿で、なんとなくフラフラして芯がないような感じの、三十すぎぐらいの中年男。髪はボサッと爆発していてセットしてないのが丸わかり。地味ってよりもダサい黒縁の眼鏡をかけている。  そのダサ眼鏡さんと目があったので、私は黙った。その人もすぐ奥へ引っこんだ。  するとその途端に、物が倒れるガチャンという音やバタバタと暴れる音がして、金切り声が響いた。 「ハ、ハゲタカどもが! 金の亡者め! ちれっ、ちれっ!」  そのあとに、おとなしくしてと懇願する声や旦那様という声が聞こえたから、金切り声の主か誰だがわかってしまった。つまり、今まさに危篤状態にあるはずの、当主の伊瀬山礼三《いせやまれいぞう》だ。  玄関の板の間に正座している十人ぐらいの人たちが、あきれたようにうめいた。ぼそぼそと私語を交わし始める。私がここへ上がったのが一時間前で、この人たちはそれよりずっと前からいたみたいだから、待ちくたびれるのも無理はない。まだまだ長引きそうだと知ってイヤになるのも理解はできる。  もっとも、理解はできても共感はできない。人が死にそうってときに、まだかしらとか言うな。夕食の相談するな。せめて苦笑いするな。  とはいっても、みんなそんな感じだった。奥の廊下と、控え座敷と、そのまた奥の部屋からも、押し殺した私語がひっきりなしに聞こえた。全部で五十人近くいるだろうか。スーツ姿、ワイシャツ姿、セーター、ポロシャツ、革ジャンパー。そして私はセーラー服。服装はみんなてんでんばらばらで、取るものもとりあえず来たという感じだ。これが葬式なら喪服で集まるところだけど、危篤、という一報で集まったからこうなった。一種異様で、見慣れない光景だ。普通は誰かが危篤になったってこんなに大勢の人間は押しかけない。  みんなが押しかけた本当の理由は、きっぱり、遺産目当てだ。これは私の想像だけど、外れている気がしない。伊瀬山という人は、いま私たちがいる、虎の屏風のある都心の屋敷のほかにも、ビルを七つか八つと、それによく知られた健康食品の会社を持っていて、ついでに自分の苗字と同じ名前の市まで持っている。いや市を持っているというのはさすがにうそだけど、伊瀬山市、という地名は東京から車で半日かかるM県に実在する。世が世なら領地を所有しているほどの名門だってことだ。  今はお殿様ってほどではないけども、ICUでスパゲッティ状態にされるのがいやだからという理由で、東京に病院を開いた同郷のお医者を、枕元に貼り付けっぱなしにするぐらいの財力は、まだ余裕で残していた。  伊瀬山の正妻と嫡子だけでなく、親戚一同がそれを知っており、みんなそれぞれのルートで彼の体調をつかんでいた。それで、いざ待ち望んでいたときが来たから、みんなが集まってきたというわけだった。  私は例外。待っていたわけじゃなくて、伊瀬山に近いある人、つまりさっきのダサ眼鏡さんに連絡をもらったので駆けつけた。理由はさっき言ったとおり。たとえどんなに嫌いでも、人生に一度ぐらいは実の父の顔を見ておくべきだと思ったから。  でもそのささやかな願いは、どうも実現しなさそうだった。来たと伝えたのに、ちっとも枕元に呼ばれない。  向こうがその気ならそれでいい。もともと会いたい人でもない。向こうの事情に片がついたら、挨拶して、それで終わりにしようと思った。  気が乗らないまま待つこと数十分。足のしびれと、鞄の中の本を開きたいという誘惑にじっと耐えていると、廊下の先が不意にざわついた。おお、とか、レイさん、なんて悲痛な声が聞こえてくる。  さては、片付いたか。私は小さくため息をついた。とうとう会わずに済ませてしまった。私は父と話したことのない子供になった。  そして周りを見回して、おかしな気持ちになった。――みんな、目をぎらぎらさせて身を乗り出している。まるで、まだ会えるとでもいうように。  でも、何を待っているんだろう? 今際《いまわ》の言葉を聞く機会はもう過ぎてしまったし、弁護士か誰かが遺言状を開くのはもっと先だろうに。  不思議に思いつつ、私はなお待った。いくらなんでも死に顔も見せてもらえないということはないだろう。あのダサ眼鏡さんもいることだし。  しばらくすると、また奥の部屋がざわついた。ちょっと耳にしただけで私はおかしいと思った。  明るい[#「明るい」に傍点]のだ。喜んでいるみたいに聞こえる。  それだけでなく、名前[#「名前」に傍点]が呼ばれ始めた。 「杵屋《きねや》さん、向田《むかいだ》の杵屋|準子《じゅんこ》さん」「野口《のぐち》の義純《よしずみ》さんご夫妻」「久手川《くてがわ》の仲原《なかはら》さん……」  待機組の中に呼ばれた人がいると、満面の笑顔で立ち上がって奥へ向かった。残された人たちは顔をしかめたり、自分も呼ばれないかと首を伸ばしたりする。  これは、何? まるで表彰式か、ビンゴ大会みたい。  ますます奇妙な気持ちで待っていると、さっきのシンデレラの継母が、隣の人に興奮して話しかけるのが聞こえた。 「伊瀬山には本当に降りるのね――くばりがみ」  なに紙だって? 「石沢花螺さん」  奥からいきなり名前を呼ばれたので私はびっくりした。周りから、まるで鬼の群れみたいなものすごい眼差しが突き刺さった。 「石沢さん……花螺さん」 「はい」  私はわけのわからないまま、立ち上がって奥へ向かった。  板の間の廊下にひしめく人たちをかきわけて座敷へ上がり、立ち込める人いきれにめまいを覚えながらさらにひと部屋。ふすま一枚分開けた境目から、例のダサ眼鏡さんが手招きしていて、私が入るとすぐにそれを閉め、耳打ちした。 「お父さんだ、名乗って」  私は部屋の中を観察した。病人くさい湿気に満ちた、不快な部屋だ。  心電計や点滴台に囲まれた電動の介護ベッドの上に男が横たわっている。その周りに取り巻きらしいスーツの人が数人と、白衣を着て茶髪にした若作りの医師と、普段着にしては高そうな和服姿の年のいった女がいる。それにナースや子供たちも。和服姿の女の目つきは、にらみ殺す気がまんまん。伊瀬山の正妻だろう。だいたい想像通りの面々だ。  けれども私はべッドの上をよく見たとたん、驚いて周りの人たちのことを忘れた。  伊瀬山礼三はにっこりと笑っていた。  薬のせいで毛が抜けてやつれてはいるけれど、表情は笑顔だ。私のバイト先でもめったに見たことのないような、やわらかくて福々しい満面の微笑み。  これがさっき、点滴台倒して喚《わめ》いてた人か?  ダサ眼鏡さんが脇から私の手を取って、病人の手に添えた。それはひんやりとしていて色も冷たさもロウそっくりで、私は反射的にパッと手を引いてしまった。用意していた名乗りが喉に貼り付いて、ひどくかすれた声が出た。 「石沢、花螺です。……石沢|藤《ふじ》の娘の」  お父さん、と呼ぶ気はなかった。  けれども伊瀬山は、そんな皮肉が聞こえていないように、目を細めて言った。 「花螺に、な。あげる……」 「はい?」 「あげる。この、橡屋敷《くぬぎやしき》をな、あげる」  何を言っているのか、わからなかった。妻子があるくせに私の母を孕ませて、冗談みたいな手切れ金だけで放り出した挙句、一度も会いにこなかった男なのだ。  それが今さら、屋敷をくれるだって? 「ちょっとお、あなた!? 今さら何言ってるの!?」  枕元に控えていた正妻が目を剥いて、耳を塞ぎたくなるような甲高い声を上げた。続きの間の人たちもいっせいにざわめく。  それが全然聞こえていないみたいに、伊瀬山は天井を見つめたまま、にこにこと繰り返した。 「藤の娘の、花螺に、な。屋敷、やる。なあ、花螺」  私は返事もできなかった。というのは、私が用意してきたのは罵倒の言葉だったからだ。けれども目の前の相手は、罵倒するにはあまりにも善良そうに見えた。  というよりも、本当に伊瀬山礼三本人なのか、確信が持てなかった。  私がためらったその瞬間が、最後の機会だった。 「これで全部だ、な。ああ、すっきり、すっきり」  伊瀬山はそうささやくと、ふーっと長い長い末期の息を吐いて――二度と目を開けなかった。        2 「そこつかまって。木塚《きづか》さん、つかまって。そう、そうだよ、離さないでね」 「うん、うん、つかまるねえ、花螺ちゃん、つかまるよ。危ないからねえ」 「つかまってね。危ないからね」  私はそう答えながら、八十二歳になったばかりの木塚のおばあちゃんを浴槽に入れてあげた。脆《もろ》そうな骨を包む薄いごわごわした肌を、汗だくになって洗っていると、木塚さんは日なたの猫みたいにリラックスして言った。 「ああ、ありがたいねえ。花螺ちゃんには感謝、感謝だ。あたしの財産を、ぜんぶあげちゃうよ」 「じゃあ、それで旅行いくよ。私、ギリシャ行きたい」 「ギリシャねえ。ギリシャでも、ハワイでも、行っておいで」  私はくすくす笑って、木塚さんの耳の後ろまできれいに拭いてあげた。  木塚さんや三宝園《さんぽうえん》の他の高齢者と、こういうやり取りをすることに、私はなんの抵抗もない。だって三宝園は設備が古くて料金の安い、ぶっちゃけお金のないお年寄り向けのデイサービスセンターだから。財産のある人はこんなところに来ない。だから木塚さんには毎回、ギリシャ旅行やミニバンやフルコースをおごってもらったりしている。これまで十億円分ぐらいもらったかもしれない。空想上のお金を。  それと同じように、伊瀬山の屋敷で聞いた言葉が、どっかへ消えてくれたらよかった。でも木塚さんと違ってあの男は実際に財産を持っていて、それは私があの場から逃げ出したあとも消えてなくなってはいなかった。  私とパートナーが入浴の終わった木塚さんに服を着させていると、廊下から園長が顔を出して言った。 「カラン、お客さん。前に来た、多岐《たき》って人」 「ああ――えっと」 「断る?」 「いや、出ます。これ済んだら」  園長は一度引っこんだけど、すぐ戻ってきてまた付け加えた。 「進路志望、結局あのまま出したの?」 「ええまあ」 「そっかー」  残念そうに言って園長は消えた。彼女は先日、公立大学へ行ってもいいと言ってくれた。嬉しい申し出だけど、園の財政を知ってる私としてはとても受けられなかった。このご時世に、住み込みで高校へ通わせてもらっているだけで十分だ。  木塚さんの世話を終えてロビーに出ると、例のボサ頭のダサ眼鏡さんが新聞掛けの朝刊を手にして、立ったまま読んでいた。その姿は行動的というよりは、やっぱり、ただ単に座ることを思いついていないだけのように見えた。  この多岐|廉次《れんじ》という人は、以前「伊瀬山の使い」だと名乗った。でもいまだにどんな人なのかよくわからない。他の親族が見せるような、私への軽蔑や財産へのギラギラした飢えを感じさせないのは確かなんだけど。 「お待たせしました」  私が声をかけると、多岐さんは不器用そうに新聞を畳みなおしてスタンドに戻し、「あー、えーっと」と間延びした声で言った。 「ちょっと長い話があるんだけど、いいかなあ」 「この前の件なら、気は変わってません」 「うん、その話。そのね、理由を聞きたいと思って。普通はお金持ちになるチャンスがあったら、受けるじゃない。いかがわしい話でもないんだし」 「花螺ちゃん、花螺ちゃん!」  そこへ車椅子の上原《うえはら》さんが割りこんできた。近くで多岐さんの様子を見ていたらしく、露骨に彼をにらんで、こっちへささやく。 「いかんよ、こういう話に引っかかっちゃあ。世の中にはな、ただで儲かる話なんかねえんだから!」 「いえ、あのね。勧誘とかセールスとかじゃないから、大丈夫」 「最初にうめえことを言って、信用させるんだ。いかんよ、花螺ちゃん!」  上原さんは唾を飛ばして言う。心配してくれるのは嬉しいけど、今はちょっと困る。きっちり説明しておかないと多岐さんはまた来るだろうし、この人には説明したかった。  ここでは話にならないので、私は多岐さんにささやいた。 「すみません、表の坂の下のマックで」  待っててほしいと目顔で伝えると、彼はうなずいて出ていった。私も園長に話してから施設を出た。  三宝園は坂の上にあって、坂の下の四車線の大通りが近い。けれど園のすぐ下に、塀に囲まれた私有地があるので、大通りまで直線的に行き来することはできない。いつも塀に沿ってえっちらおっちら遠回りをして歩く。この日も、右手にそびえる塀と車道の間で身を小さくして、坂を下った。  店に着くと多岐さんは喫煙席でハンバーガーを食べていた。その向かいにアイスティーを手にして座ると、彼の紺のネクタイにケチャップがついていた。私は眉をひそめた。 「僕がきみのなんなのか、まだ言ってなかったよね」  食べながら多岐さんはいきなり言った。私はちょっと面食らいつつ、小さくうなずいた。彼はそれを受けて言う。 「いとこです、石沢花螺ちゃん」 「え?」 「伊瀬山礼三の弟は、よそへ婿入りして子供を作った。それが僕だ。きみは礼三の、実の子だよね。だから正しく、従兄妹《いとこ》だってことになる。よろしく」  多岐さんは口をもぐもぐさせながら、目だけでちらりと笑った。 「……ああ、はあ」  私は曖昧に答えた。母方のほうの親戚とも縁が薄くて、血縁への思い入れがなかった。 「でも、今のところそれはどうでもいい」  なら話すなよ。 「いま問題なのは、僕が橡屋敷の管理人をしてるってことだ。管理人といっても偉そうなことは何もなくて、庭掃除やら割れ瓦の取替えなんかをしているだけだけどね。きみが財産分与を断ったんで、いまあの屋敷の所有権は宙に浮いてる。このままだと困る。なんとかしてほしい」  苦手な血縁の話を離れて本題になったので、私はいくらか安心して答えた。 「えっとですね。あれって有効なんですか」 「あれって?」 「遺言。どう見ても普通じゃなかったでしょう。亡くなる間際で、ちょっとおかしくなってあんなことを言っちゃったんじゃないんですか」 「あれが無効なら、世の年寄りの遺言はほとんど無効だよ」多岐さんは苦笑する。「伯父は、石沢藤さんの娘の花螺さん、とはっきりした言い方で指定した。それを、そばにいた弁護士さんも、ドクターの甲子郎《こうしろう》も聞いた。なかったことにはできない」 「ふうん。でもなかったことにしたいんですけど。私にだって、断る権利はあるでしょ」 「あるみたいだね。でも保留した、ということにしてある。きみはあのとき、けっこうです、と言って出て行った。けっこうですだけじゃ、OKなのかダメなのかわからない、ということにしてね」 「『ことにして』って、誰がそんなことを?」 「僕だ」  多岐さんがしゃあしゃあと言ってのけたので、私はアイスティーを噴き出しかけた。 「なんであなたがそんなこと?」 「きみに相続を断られると、法律に従って他の親族に行くんだよ。でも他の親族はもう十分、分け前にあずかっている。きみも聞いていただろう? 伯父はたくさんの人の名を呼んで、財産を残らず分け与えた。伯母――正妻の取り分だったはずのものまでだ。それでも伯母たち家族には、三田《みた》に別の屋敷があるし、伯父の会社とビル二つ分ぐらいの財産は渡ったから、全然気の毒には思わないけれどね。もともときれいなことばかりして貯めた金でもなし」 「だからって――」 「あそこにいた中で、相続を断ったのは、花螺ちゃん、きみだけなんだよ」  多岐さんに指差されて、私は口を閉ざした。 「僕は管理人として橡屋敷に愛着があってね――その点はまあ、僕の私欲ということになるんだけど――欲の皮の突っ張った連中があそこに乗りこんできて、やりたい放題するのを見るのが、いやなんだ。どうせなら、きみのような無欲な人にもらってほしい」 「ああ……そういうことですか」  ようやく私はこの人の立ち位置と目的を飲みこんだ。あれだけ守銭奴がひしめき合っている中に、見知らぬ娘に財産を分け与えようとするような善人が、一人だけいるわけがないと思った。  要するにこの人は庭師だか掃除人だかとしての既得権を守るために、屋敷を温存してもらいたいと言っているんだ。それならかえってよくわかる。  多岐さんは軽食を食べ終えて、アルミの灰皿を引き寄せ、一服つけ始めた。 「正直に言うと、私はあの人が嫌いでした」  私は、くさい煙を浴びて顔をしかめながら言った。 「あれだけ財産があるのに、お母さんを放り出して、私のことも無視していた」 「一度、話しに行ったよね。認知してほしいかどうかって」  それはこの人が初めて、伊瀬山の使いとして私たちのところへ来たときのことだ。私はうなずいて、すぐ首を振る。 「確かに一回断りました。でもそれっきり音沙汰なしってどうなんですか。本気で心配してるなら、また来ればよかったじゃないですか。だいたい、本人が来るべきでしょう」 「それは後悔してるの? あのとき受けておけばよかったって」 「違います! そういうことじゃなくて、財産よりも気持ちがほしかったって言ってるの。こっちからは一度もたかりにいったこと、なかったでしょう?」 「それはそうだ」  多岐さんは深々とうなずいて、ふーっと煙を吐いた。私は耐えられなくなって顔の前で手をパタパタ振った。すると彼は今さらのように、「あ、ごめん。嫌だった?」と火を消した。 「嫌いだから」と私は続ける。「あの人の遺志に沿うなんて、いやなの。善人面でおためごかしに押し付けられたものなんか、受け取りたくない。何がああすっきりすっきりよ、ふざけんなだ」 「受け取ると、あそこにいた連中の恨みも買うしね」 「それもあります」 「若いのに悟ってるね」 「苦労してますから」  お母さんが生きていたころだけど、一週間ぐらい電気と水を止められたことがある。三宝園に拾ってもらえなければやばかった。あれを思えば今の暮らしに文句はない。  多岐さんはしばらくあごをつまんでいた。そして続けた。 「きみは財産なんかいらないと。――でも、三宝園はそうでもないよね。受け取ったのちに、屋敷を温存してくれそうなところへ売っちゃうってのはどうかな。そのお金を園へ回す」 「園のことを知ってるの?」 「まあちょっと調べただけだけど、調べなくても見ればすぐわかるよ。資金繰り、苦しいんでしょう」 「ええ、まあ……」 「あんなに儲かってないのに、よくきみを住み込ませてくれてるよね」  私を住み込ませている「から」、さらに苦しいんだけど、それはこの人なら言わなくってもわかってるだろう。いい人間ばっかり苦労する。 「ね、どう?」 「私が屋敷をもらって、すぐ売っちゃったら、あなた何が得なんですか」 「他の連中はあれぶっ壊してマンションにしようと思ってるからね」 「だいたい私にあそこを相続できる[#「できる」に傍点]の? 税金とか、維持費とかすごくかかるんじゃない?」 「相続税は庭を分筆して物納すればいいんじゃないかな。それに裏にくっついてる立体駐車場、実はあそこも屋敷の一部なんだ。立駐の利益だけで維持費と固定資産税ぐらいなんとかなるという……つまり持ってるだけなら全然金がかからない屋敷なんだ。まあ儲かりもしないけど」  なんだか言いくるめられそうな気がしてきた。たらたらした見かけに反して、この多岐っていう人は、かなり強引なようだ。どうしても私に屋敷を受け取らせたいらしい。それに動機もまあ、そんなに不愉快じゃない。――この人がセールスか勧誘なら、私は乗っちゃっていたかもしれない。  けれども、ここでうんというのには抵抗があった。理屈の問題じゃない。手ざわりの問題だ。疑り深い上原さんじゃないけど、この成り行きには素直に喜べない、喜んではいけないと思わせるところがあった。単に私が伊瀬山を嫌いだからというだけの理由じゃない。何かが引っかかる。  私は、じっと見つめていたドリンクのカップから目を上げて、かすかに笑ってるみたいな多岐さんの顔を見た。 「そういえば――」 「ん?」 「あれって、なんだったんですか」 「あれって」 「死ぬ間際にいきなり大盤振る舞い」突然、するっと、シンデレラ継母の言っていた言葉が頭に浮かんだ。「クバリガミ?」  多岐さんの顔から表情が消えた。「聞いたの」とつぶやくように言う。 「なんなんですか? 紙を配るの?」 「いやまあ、なんていうか、ね」 「秘密なの?」あの場の疎外感を思い出して、苛立った。「私、何も聞いてないんですけど?」 「別に秘密じゃない。――というより事前に知らないでいるほうが多分得だ。きみが現にそうなったみたいに」 「なんのこと?」 「くばり神とか、おくばりさまというのはね――伊瀬山に住んだことのある資産家によく起こることで、長生きした末に亡くなった人が、財産をみんなに配ってしまうという、変わった現象[#「現象」に傍点]のことを言うんだよ」 「へえ」私はうなずいてから、少し考えて、その話のおかしなところに気づいた。 「亡くなった人が、配る? 死んでからですか?」 「そう」 「何、それ。はあ? 死んだ人が配るわけないでしょ?」言ってから気づいた。「ああ、仮死状態とか、いったん意識を失っただけとか、そういう……」 「いや、医師が心臓停止を確かめたあと[#「あと」に傍点]に起こるんだがね」 「何それ」私はもう一度繰り返した。「おかしいじゃないですか、そんなの見たことない」 「そりゃあ、きみは若いから――」言いかけて、多岐さんは口元を押さえた。「……きみは介護のアルバイトか」 「そうですよ。人が亡くなるところも、三回は」 「うん、まあ、きみが見た中ではそうなんだろうけどね。伊瀬山では昔から、ぽつぽつとあったことなんだよ。さすがに住民すべてに起こるわけじゃないので、『物を配る神様』の仕業だってことになってて――」 「神様なんかいるわけないじゃないですか!」  私は思わずテーブルを叩いてしまった。ドン、と音が響いて、マクドナルド店内の学生やビジネスマンたちがこっちを見た。  私は頬の熱さを感じながら、身をすくめた。 「神様なんか、いませんよ……」  小さな声で繰り返すと、「どうかな……」と多岐さんが言った。 「僕が言うのもなんだけど、伯父はひどい人だった。恩のある取引先を裏切って利益を得たり、従業員を酷使して病気にさせたあげく、訴えられると逆に裁判で潰したりした。そんな人が死にぎわに突然、気前がよくなるというのは――それこそ神様の仕業とでも考えなければ、納得がいかない。きみは納得できる?」 「それでごうつくばりの親族が喜んで、悪いことをしてきた本人がほめたたえられて、いい気になって死ねるって言うなら、そんなことをするのは神様じゃない、たちの悪い別の何かよ」  私はそう言って多岐さんを上目遣いににらんだけれど、言いながら胸がぎゅっと痛むのを感じた。それで、ああこれはちょっと言いすぎだ、と気づいた。――思ったとおり多岐さんは、私のきつすぎる視線に困って目を逸らしてしまった。  彼が悪いわけじゃない。私は落ち着きを取り戻そうと深呼吸して言った。 「なんの仕業だとしても、あの人からものをもらうのは気持ち悪いです」 「じゃあ逆に考えよう。どういう理由があれば、きみは屋敷を受け取ってくれる?」 「あなたはどうしたらあきらめてくれるの?」 「現状ではあきらめる気はないよ」多岐さんはぎょっとするようなことを言って、眼鏡の奥の目を細めた。「天の道から言っても、法律に照らしても、これが一番いい解決だと信じているのでね。伯父がもういっぺん蘇《よみがえ》って前言を取り消しでもすれば、別だけど」  私はそれを聞いて少し考えた。それから携帯の時計を見て、また彼に目を戻した。 「すみません、仕事の続きがあるんで、そろそろ戻らないと」 「そう」と言った後で、多岐さんは付け加えた。「あ、きみの後見人って園長さん?」 「そうですけど、それが?」 「いや、話をね、通さなきゃいけないから。もちろんきみがうんと言ってからだけど」 「うんって言いませんから話さなくていいですよ。失礼します」  私は席を立ち、一礼してその場を離れた。多岐さん自身の言葉から、話を断るためのヒントをひとつ盗めた気がしていた。  マックを出て大通りを歩き、帰りの坂を登った。曲がり道の内側に高いコンクリート塀が続いている。この塀は荒れているので危ない。柱の割れた角から錆びた鉄筋が突き出ていたり、塀の上を走る有刺鉄線が途中で切れて、トゲトゲの針金がぶら下がっていたりする。今までに二度ほど服のひじを破かれてしまった。できればそばを歩きたくないけれど、道の反対側はカーブの外に当たるので、車が寄せてきてもっと危ない。今日はさらに工事予告の立看板が置かれてものすごく邪魔になっていた。ここを通るたびに、せめて鉄筋とか針金だけでもなんとかならないかなあと、いつも空《むな》しく考える。  駅からの道が悪い、これは三宝園の料金を安くせざるを得ない理由のひとつだ。  園に戻ると園長が声をかけてきた。 「お帰り、カラン。どうだった?」 「んん、まあいらないって言ってるんだけど、向こうも税金対策とかでしつこい。また来ると思う」 「いっそのこともらっといて、パーツと一日で使っちゃったら? 何かのためにするのが嫌なんでしょ」 「木塚さんみたいなこと言うね。だめだよ、貧乏性だから」 「じゃあ全部宝くじにするか!」  園長は軽口を叩いて笑った。四十五歳の気さくないい人で、お母さんの生きていたころは親友だった。伊瀬山の遺産は「ちょっぴり」だったと伝えてある。宝くじに換算すれば百万枚は買えるかもしれないと知ったら、どんな顔をするだろう。  ちょっと怖くて言えなかった。        3  多岐さんは、伊瀬山がもう一度蘇って前言を取り消したらあきらめる、と言った。  私はそれを聞いて奇妙に思った。多岐さんがそれを、ありえないことだというニュアンスで言ったからだ。なんでありえないと言えるのか? そもそもあの人は、一度死んだ人が蘇って遺言を口にしたという前提で話していたのに。  伊瀬山礼三は火葬されて骨と煙になってしまった。だからもう蘇らないのは間違いないけれど、それを言うなら医師が死んだと認めた人だって、同じぐらい蘇らないはずだ。  そこを「くばり神のおかげだから」で済ませるのはおかしい。伊瀬山ゆかりの人みんなが認めているなら、そのみんながおかしいのだ。  けれどもそんなことってあるんだろうか。みんなが間違っていて、私一人が正しいなんて。そう心配になったので、夜になってから園のパソコンを借りて、ネットで調べた。  それでわかったのは、くばり神の話はネットに存在するけれど、オカルトの扱いを受けており、ごく少数の人を除いて、誰もまともに信じていないということだった。  変な話だった。橡屋敷には、くばり神の実在を信じる人が何ダースもいたのに。伊瀬山市にはその何十倍もいるだろう。その全員がネットに実情を書き込まないなんてありえない。くわしいレポートや分析が出ていてもおかしくないはずだ。 「はず」ではあるけど、実際にはない。――これは一体どういうこと?  それはつまり、実物を見た人は口外しないからじゃないか、と気づいた。  くばり神を目にすることができるのは、臨終の床へ呼びつけられた人だけだ。その人間は遺産を受け取る。周りの医師や弁護士、スタッフも、事前に十分報酬をもらっているだろう。正妻と子供は取り分が減るけれど、たぶんゼロになることはない。要するにくばり神を見た人はみんな裕福になるわけだ。  棚ぼたで裕福になった人間は百パーセント妬まれる。この国のおきてだ。だからみんな実体験を話さない。巷《ちまた》に流れるのは、実際にくばり神を見たことのない人たちの、嫉妬混じりの想像ばかり――ってことになる。オカルト扱いされるのも無理はない。  さてそれで、くばり神がいまだに謎に包まれているということはわかった。でも私はそこで探求をやめるわけにはいかない。実物を見てしまったんだから。  くばり神は伊瀬山一人に『降りた』(という呼び方をするらしい)ものではなく、昨日今日現れたものでもない。昔からいたと言われている、それは確かだ。だから、一人や二人の人間が思いつきででっちあげた現象じゃない。神様がどうかはともかく、そうした現象自体は何度も起こってきた。  それは何を表すんだろう。  そいつは、伊瀬山礼三に降りた神様だか妖怪だか宇宙人だか何かは、どうして私に優しくしようとしたんだろう。  パソコンを切って自室に戻る。部屋は園のリネン室を改造した三畳で、ただでも狭いのにベッドと本棚があるから絶対に友達なんか呼べない。その狭い部屋のべッドに潜って寝た。  悪夢を見た。  汗と消毒の匂いのする、暑いじめじめした座敷に、六十がらみの汚れた顔の男が横たわって、苦しんでうなっている。それは私だ[#「それは私だ」に傍点]。廊下から鬼のような目つきをした親族が何十人も覗きこんでいる。枕元の多岐さんが、苛立った口調でささやきかける。くばり神さま、くばり神さま、早くおくばりを。私は焦る。配らなくちゃ、全部あいつらに渡さなくちゃ。だけどもちろん、渡すべきものを思いつかないし、彼らの名前もわからない。そんなうめえ話はねえんだ、と車椅子の上原さんが叫ぶ。うん、うん、わかってる。だけど私は蘇っちゃったんだよ。ただで蘇らせてもらえるわけがないってことは、よくわかってる。蘇ったからには配らないといけないの。くばり神さま、はやくおくばりを。斜め後ろで誰かがささやく。配らないと、配らないと。大変なことになる。怖い怖い、誰か助けて。  おくばりを、おくばりを。のけぞって枕元を見ると多岐さんはいなかった。代わりに茶髪にした若作りの医師が体温計を振って覗きこんでいた。蘇ったかな? 伊瀬山さん。伊瀬山花螺さん。 「うぅわあっ!」  大の字に開いた手足をビクビクッと震わせて、私は目を覚ました。まだ真っ暗で、明かりをつけると四時前だった。全身が汗びっしょりだった。  けれども動揺が収まるにつれて、自分がくばり神の正体を突き止めたことに気づいた。  伊瀬山を看取った医師のことを、多岐さんが知っているのはわかっていた。ドクターの甲子郎、と名前を呼んでいた。でもこの件は彼を通したくなくて、自力で探した。  下の名前と、M県伊瀬山から進出してきた病院の医師だってことを組み合わせて検索していたら、じきに本名と勤め先の載った、クリプトなんとかについての論文が見つかった。多分本人っぽかったので、電話で勤務日を確かめた。当日には、学校を早退してアポなしで乗りこんだ。  目的地の泰風会《たいふうかい》病院という総合病院は、着いてみたら想像以上に大きくて、会うのは無理かもしれないと思ったけれど、伊瀬山礼三の娘です、と我慢しながら名乗ってみたら、案外あっさり医局に通してもらえた。 「ああ、礼三さんの娘さんって、そっちの娘さん。あの時はわざわざ来てくれてありがとう」  道風《みちかぜ》甲子郎医師は、顔を合わせるなりこう言ってくれたので、もうそれだけで私の中での評価が二割あがった。あの屋敷にいた人たちみたいに邪険にしてきたらどうしようと思っていた。外見は以前会ったときと変わらず、茶髪、ヨーロッパブランドのネクタイ、ぴしっとしたワイシャツを白衣の下に着こんでかっこよくしている。年齢は多岐さんと同じほど、つまり三十歳をすぎて数年ぐらい。フランクっぽく作っている抜け目のないやり手男、という感じ。実際に頼れる人なのかどうかはまだわからない。 「食べながらでごめんなさい。あなたは、お昼は?」  仕出しのお弁当に手をつけながら話す。済ませましたと答えて、私はすぐ本題に入った。来た理由が理由なので、特に駆け引きやら話術やらを使う必要は感じなかった。 「今日はちょっと教えてほしいことがあってお邪魔しました。伊瀬山市のくばり神っていうあれ、あなた方お医者さんの仕業ですよね。なぜあんなことしてるんですか」 「ぶほっ」  道風さんは幕の内の黒ごま飯を喉に詰まらせかけて、お茶に手を伸ばした。私は、その仕草に演技じみたところがないかどうか、目を凝らした。  ないように見えた。 「なに――ええ? ――びっくりした。それ、どこで聞いてきたんですか?」 「あってましたか? 想像で言ったんですけど」  道風さんは目を丸くして私を見つめた。それからナースさんを呼んで後の指示のようなことをしてから、立ち上がった。 「あなた、石沢さん? ちょっと奥へ来てくれますか? デリケートな話だから」 「はい」  壁に賞状や絵画がかけられ、書架に革装の分厚い洋書が並ぶ部屋に通された。なぜか道風さんがお猿さんを抱っこしてる写真も飾ってある。院長室かそれに近い部屋だとひと目でわかった。ということは、この人は院長と近しい間柄なんだろう。  重そうな大理石の灰皿の載ったガラステーブルを挟んで私たちはソファにかけた。道風さんは揉み手しながら身を乗り出して、くだけた口調で始めた。 「さてさて――まず最初に、こっちへ来てもらった理由を話そう。ぼくたち、伊瀬山市の良い筋の人間は、きみがさっき言った上様《かみさま》のことを大変尊いものだと考えている。一種の宗教だと思ってもらってかまわない。なので、その名前があっちこっちでむやみやたらと口にされると、ちょっとしょんぼりしてしまう。大事にしたいから、二人になったんだ。そこのところを、まずわかってほしい。こういう感覚、わかる?」 「はい。――はいっていうのはつまり、私、介護のバイトしてるんで」 「介護」 「はい、年配の方でよくいますから。宗教。基本、口は出さないようにしてます」 「ああ、それはよかった。そう、別に一緒に拝めなんて強要はしないからね――ただちょっとだけ、尊重してほしい」 「わかります」 「よかった。きみは優しくて賢い子だね」道風さんはにっこりと笑った。ファンの多そうな笑顔だった。「じゃあ、話をしようかな。ええと、まず上様のことをどこで知ったの?」  あるていど向こうの質問にも答えたほうが、こちらの質問に答えてもらいやすいだろうと思って、私はしばらく聞かれるがままに応じた。神様のことは橡屋敷の親族が言ってました。私の見たあれがそうだった、ということは多岐さんからの説明で。死の間際にものを配る神様だって聞いてます。それが本当に神様なのか、それ以外の何かなのかは、わかりません。 「でも」と私は自分の見解を口にする。「『それがなんなのか』はわからなくても、『それがどうして続いているのか』は想像できます。あることがひとつの地方で長く続く理由。それは自然に関係する理由か、集団に関係する理由か――」ぞくっと小さく震えて、「血筋に関係する理由があるんです。でも伊瀬山は東京でああなったから、自然はたぶん関係ない。神様は町に住んだことのある人に降りるそうだから、血筋も関係ない。とすれば、なんらかの集団が関係しているんです。組織が、くばり神さまを呼び降ろしている。それで、ひとつの町に広く影響を及ぼすことができて、なおかつ東京にまでそれを延長できる組織っていったら……」 「わかった! うん、わかった」  道風さんは手のひらをこちらに向けて叫び、首を斜めにして「っかーっ」とうなった。 「石沢さん、すごいね。すごい洞察力だ。何かの訓練をしてる? いい先生がいるとか?」 「本読むぐらいですけど……」私はうつむく。「理科系とか人類学」 「素敵な女の子だなあ」  道風さんは腕組みして嬉しそうに言ったけれど、膝の上の白衣の裾をしきりにさすりながら、だんだん難しい顔になっていった。 「そうすると、説明したほうがいいかなあ……いや、多分きみの考えてる通りなんだけどね。でもこのことは身内で相談してからでないと、話せないことになってて……」 「あのですね」  私は少しテーブルに身を乗り出した。 「私、別に、くばり神さまの正体をどうしても知りたいわけでも、それをみんなに言いふらしたいわけでもないです。私が知りたいのは、伊瀬山礼三がどうして私に屋敷を押し付けようとしたか、ってことなんです。それがどうにも気持ち悪いんです。――えっとすみません、あなたは伊瀬山礼三のご親族さんじゃないですよね? そうだったら失礼しました」  私の親族、という言い方をするのはやっぱり抵抗がある。私がそう言うと道風さんは、いやいやいや、と苦笑して手を振った。 「道風はそんなに濃いつながりはないですよ。わりと時代が下ってから伊瀬山に来た氏《うじ》だからね。戦前……大正のころかな。上様に御触れいただいたのも遅かった」 「はあ」 「そう、礼三さんがきみにお屋敷をあげようとした理由ね。それはやはり、あの人がきみを気にかけていたからじゃないかな」 「ありえないんですけど。あの人は、うちの母にひどいことをしました」 「経緯は大体聞いてるよ。しかしそれでもね」 「私は」失礼と思いつつ、叫ばずにいられなかった。「お医者の一族が財産家の当主に何かの手を加えて、くばり神っていうものを作り上げたんじゃないかって思ったんです。ここの、泰風会? それが。つまり、伊瀬山が屋敷をくれたのは、あなたたちが仕込んだんじゃないんですか? だとしたらそれはどういう理由なんですか?」  道風さんは指を組んで考えこむ。私はなおも言った。 「だったら言いたいんですけど、私、伊瀬山に良心があったなんて認めてやりませんから。良心とかではなく、純粋に仕掛けだった[#「純粋に仕掛けだった」に傍点]ってことなら、話が別になってくるんです。それだったら、屋敷の始末について、互いにお話しできると思ったんです」 「ま、ま」  道風さんは抑えるみたいに片手をあげた。そうして眉根を寄せて、絶体絶命のピンチを乗り切る名案を模索している俳優みたいな顔で、しばらく黙っていた。  やがて顔を上げると、ふっと目を見張ってとぼけた顔で、私の腰の辺りを指し示した。 「ま、座って?」  中腰になっていたことに気づいた。私はソファにお尻を戻した。  道風さんはふらりと立ち上がり、ドアから顔を出して向こうへ声をかけた。なんだろうと思ったら、ジュースパックとお菓子皿を受け取って戻ってくる。私の前にそれが置かれた。灰皿も勧められたので吸いませんと答えたら、「ぼくもだ」と言って笑った。  その笑いのままに、道風さんは話し始めた。 「上様――『御配神《おくばりのかみ》』さまは、伊瀬山市の人間の、善意と繁栄の象徴なんだよ」  そうして私は、それがなぜ受け継がれてきたのか、そして伊瀬山礼三がどうして大金持ちになれたのか、その理由を教えてもらった。        4  道風さんの話を思い返しながら電車に乗って帰ってきた。駅を出てマックのある大通りを歩いて、いつもの坂を登ろうとしたらいきなり道に迷ってびっくりした。 「あれ?」  少しの間、自分がどこにいるのかわからなくなった。うろたえて周りをよく見たら、やっぱりいつもの坂の下だった。じゃあこれはなんだ、と坂を見上げて思う。  色鮮やかなピンクの可憐な花が、ひろびろとした斜面を覆っていた。人が踏み分けた細い道がジグザグに走って、斜面のふもとと頂上をつないでいる。  私は五分あまりも、その明るくて風通しの良い光景を呆然と眺めていた。何も起こらなければ、そのままいつまでも立ち尽くしていたかもしれない。  坂の上から花畑をジグザグに歩いて、スーツ姿の男の人が降りてきた。少し猫背気味のその人が私のそばへ来て声をかけた。 「やあ、花螺ちゃん」  よく見たら多岐さんだった。私はうなずいて、斜面に目を戻した。 「なんですか、これ」 「コスモスじゃないかな」  多岐さんはズボンのポケットに両手を突っこんで、私の隣に並ぶ。花の名前じゃなくて、と言いかけてやめた。よそに住むこの人が、ここの事情を知っているわけがなかった。  私がなおもぼけっと突っ立っていると、多岐さんは心配になったらしく、「どうしたの」と顔を覗きこんできた。私はまとまらない考えをそのまま口に出した。 「ここ、塀があったんです」 「うん」 「それが花畑になっちゃった」 「なったね」 「へえーと思って」  多岐さんは沈黙している。遅まきながら私も、頭の悪いことを話したと気づいた。いらいらと額を指でかいて、少しはマシな説明ができないかと努力してみる。 「私の中で、ここって、錆びたトゲがちくちく突き出した、灰色の大きなソリッドなもの、だったんですね。なんとなく、世界ができたときにはすでにあったものみたいに思ってた。それが何か、いま見たらごっそり消えて花になってる。ちょっとすごいなあと思って。いえもちろん、外周の塀が取り壊されただけ、ってのはわかるんですけど」  嘘だ。塀が壊されたっていうことは、向こうに伏せてある工事看板が見えたので、今ようやく実感し始めたところだ。花畑は消えた塊《かたまり》の代わりにいきなり出現したんじゃなくて、薄っぺらな塀の向こうに、以前からごく当たり前に存在していたんだろうけど、そうとわかっても、なんだか夢みたいだった。 「まあ、都会ってそういうところだよね」  私は顔をあげた。多岐さんは、小馬鹿にしたような薄笑いで、私を見下ろしていた。 「たくさんの人の都合が、寄ってたかってできあがっているのが都会だからね。山のほうみたいに千年この方変わらないところとは違う。どっしりとして見えても、人の都合であっけなく変わる」  多岐さんは胸ポケットをあさって、煙草を口にくわえた。 「花螺ちゃん若いから驚いたんだろうけど、こんなのはこの先いくらでも見るよ、きっと」  火をつけて、すっぱすっぱと筒先を赤く光らせた。 「園長さんに話しちゃった」 「――はあ!?」  私は不意打ちを食らって声をあげた。多岐さんはどろんと濁ったような目に、意地の悪そうな笑みを浮かべて、ささやく。 「時価総額四億七千五百万円の土地家屋と立体駐車場、そういうものがあれば、花螺ちゃんの人生をとても楽にしてあげられますよねって」 「言っちゃったの!? なんで!」 「なんでも何も、きみ未成年だしね。僕のこと、なんだか疑ってるみたいだし。身近で親身なおとなの人に判断してもらうほうが、参考になるでしょう」 「あの人は受け取れって言うに決まってるじゃない……!」  私は思わず、手にしていたスポーツバッグを落としてしまった。  多岐さんは難しい顔をして言う。 「言っとくがね、園長さんは即答はしなかったよ。もちろん最初は冗談だと思われたけど、よく説明して、事情を呑みこんでもらってからも、ぜひに、なんて言わなかった。きみの意思を尊重したいと言っていたね。まあ相談することにはなると思うけど。あの人はしっかりした人だよ」 「あなたに言われなくてもわかってます」  腹立ちまぎれに、私は多岐さんをにらんだ。  それから花畑に目を戻した。今度は、その景色を眺めてぼうっとするためじゃなくて、考えをまとめるためだった。  病院で、道風さんは私が想像もしなかったことを話してくれた。それは、くばり神が伊瀬山市の発展を支えてきたということだった。  その昔、というのが正確にいつのことかはわからないけれど、山間の盆地であるM県のあたりに、米作が広まるか広まらないかというぐらい古いころから、くばり神は豪族たちの間に広まっていた。有力な人の死の間際に降りて、気前よく財産をばらまいた。  くばり神は生前の遺恨や利害に拘《こだ》わらず、財産を与えた。むしろ生前ひどい目にあわせた相手にこそ、より多く与えたらしい。それは相手に償いとして受け取られ、和解を促し、結束を強めることになった。くばり神は、有力者の死をきっかけとして、人間関係のこじれを解消する装置として機能していった。  また逆に、くばり神は力の散逸を防ぐ役にも立った。くばり神は事故や病気による早逝では現れず、老衰による自然死のときだけ現れる。そういう場合には敵や第三者でなく、死者と近しい親族だけが立ち会うことになった。財産は死者からほどほどの近さにある人々にだけ、分けられた。  伊瀬山の有力者にくばり神が降りる、ということがある程度知られると、社会の仕組みのほうもそれに合わせて変わっていった。たとえばある人が力を持って一頭地を抜けたとする。よその土地ではそれをうらやんで、権力闘争や跡目争いが起きるところだ。だが伊瀬山では、その人の死に際して平等で広範な分配が行われるという期待があった。だから身内の争いが抑制された。  またくばり神は、貧富の差が激しくなりすぎることも防いだ。平安貴族が現れ、武家が台頭し、戦国時代に入って、日本では大きな城を築くほどの強者と、泥水をすするような弱者が分かれたけれど、伊瀬山では、どんな強者もその勢力を長続きさせることがなかった。必ずくばり神が現れて、富を分配し、負けた者たちの不満を和らげたからだ。  もっともそのせいで、伊瀬山の外から徳川幕府という最強の敵が訪れたとき、それに対抗できるような強力な統治者が出ることもなかった。伊瀬山は小さな一藩として幕藩体制に組み込まれ、江戸時代二百六十年を静かに過ごした。くばり神は鳴りを潜め、あまり活躍しなかった。  けれども明治に入って富国強兵、殖産興業という流れが起こると、くばり神はまた姿を現した。会社が結成され、工場が建てられて、成金が次々と出てくると、どこからともなくくばり神がやってきて、その富を分配した。伊瀬山では、江戸期に入る前のような固い結束が復活し、昭和に入るまでおおいに繁栄したということだった。  第二次大戦が終わってからは、もはや一市一県で、栄えるの栄えないのという話をする時代ではなくなった。実業家、大企業といえば、全国区の、あるいは世界レベルのそれを指すようになった。さすがに伊瀬山にもそれだけの大勢力を輩出する力はなくて、世間から一歩も二歩も置いていかれてしまった。  それでもこの地には強力な互助の力が残り、今なお全国トップレベルの自殺者の少なさや貧富の差の小ささを維持している、という話だった。 「ぼくたち泰風会の医師は」と道風医師は誇らしげに話した。「そのことをよく知っている。だから進んで上様に仕えているんだ。伊瀬山出身の実業家のそばに侍《はべ》るのは、いつでもぼくたちだ。事情を知らない外部の医師は、上様のお降《くだ》りを手助けできない。患者に死の兆候が見えると早々にあきらめてしまい、くばり神を出現させられずに終わる、ということになる。その点、ぼくたちは上手に、上様をお迎え申しあげることができる。だからきみの想像は当たっている。泰風会の医師が財産家の当主に手を加える、というところはね。けれども」  道風医師が本当は生真面目な人だというのは、そのときの真剣な目つきでよくわかった。 「ぼくたちは患者の意思に手を加えたりは、決してしない。患者が口にするのは間違いなく本人の意思なんだ。これは君の希望に反する話だろうけど、石沢花螺さん、事実だ。受け止めてほしい」  つまり、伊瀬山礼三は本当はいい人で、私に良心の呵責《かしゃく》を覚えて償いをした、ということだ。  そうなのか。どうしても、そうなのか。 「……お母さん」  それを想像するとどうしても心が乱れる。本当は、伊瀬山が同情の余地もない極悪人などではなかった[#「などではなかった」に傍点]ってことは、わかってる。  だって私の母さんが好きになったんだから。  この私の、大好きだったお母さんが、邪悪で救いがたいどうしようもない人間に惹かれて、子供まで産んだなんてこと、あるわけがない。伊瀬山はあの笑顔を過去にも浮かべたことがあったはず。どっかいいところがあったに違いない。  あったんだろうけど……。 「わかんないよ……」  それが私に見えない。  お母さんは私に、伊瀬山のどこが良かったかなんてことを話さずに死んでしまった。私には見当もつかない。それがもどかしく、苛立たしい。  頬にさらさらした柔らかいものが当たり、私は心底驚いて横へ飛びのいた。 「きゃあっ!?」 「あ、おい」  多岐さんが、ハンカチを差し出したまま固まっていた。私は怒鳴りつける。 「いきなりなに!? 顔、触らないでよ!」 「いや、泣いてたじゃない」 「泣」  いてなんかいないと言い終わる前に、私は顔を背けて目元を拭った。彼の言うとおりだったみたいだ。悔しい。 「何か思い出した? コスモス見て」 「コスモス関係ありませんし。あなたに関係ありませんし」 「いや、関係はないかもだけどさ……そばで泣かれたら、気になるよ」 「例のことを、ちょっと聞いてきたの。道風さんのところで」 「えっ」  袖を目頭に当てて、もう大丈夫だと確信できると、私は彼に向き直った。 「個人的なお知り合いですよね。甲子郎って呼んでた」 「会ったんだ?」今度は彼がぎょっとする番だった。「ちょ、きみ、大丈夫だった? 何もされなかった?」 「……何かするような人なんですか?」確かにモテだなどは思ったけど、病院勤めの医師がいたずらしたりはしないだろう。「別に何も。くばり神の由来を聞いただけです」 「どこまで?」 「全部だと思いますけど?」  多岐さんがいやにあわてた様子で訊く。そんなにおかしな話だったかなと思いながら、私は要点を話した。昔の起こり、歴史上での役割、泰風会との関係。 「伊瀬山が口にしたのは本心だったって太鼓判を押されちゃったんです。気の迷いなんかじゃないって。それで私、あーあと思って」 「そうかそうか、じゃあ受け取る気になった?」 「そこまでは」彼がほっとした様子で身を乗り出してきたので、私はそっぽを向いた。「いきなり納得なんて、できません。つい今朝までは、伊瀬山が薬で操られていたと思ってたんだから」 「思ってたんだ」 「思いますよ。だってあのとき、伊瀬山はどう見ても普通じゃなかったでしょう。手、氷みたいに冷たかった。あれで正常だったって言われても」 「ああ、確かにあれは冷たかったよね。どう見ても血が流れてないだろうってぐらい……」 「……ですよね」  私は言葉を切った。何か、何かまだ、すっきりしないことが残ってるような気がした。 「あの、多岐さん。ちょっと聞きたいんですけど」 「いや」 「え?」 「いや、気が進まない」  なんのつもりか、この三十過ぎの男の人は、子供みたいなことを言ってあっちを向いた。私はちょっとぽかんとしてから、その向こうへ回りこんで問い詰めた。 「法律のことなんですけど。まだはっきりしないことがひとつ」 「やだってば」  また煙草くわえて火をつけた。私に向かって煙を吐く。なんだこのやろうと思って、煙を手で払いながら突っこんだ。 「日本の法律って、一度死んだ人の遺言でも、通ることになってるんですか?」 「さああねええ」 「何その言い方。通らないの? ダメなんですね?」 「っていうか多分、遺言を言える人は死んでないっていう前提でしょう、普通に考えれば」 「遺言を言える『から』生きてる、っていう解釈になるの?」 「いや……だから、死んだ人は遺言言わないんだよ、一般的事実として」 「でもあなた自身が、心臓止まった後に言うって――」  そのとき私は、そこに多岐さんと道風さんの二人が隠している、常識の暗い裂け目があることに気づいた。  いや、くばり神を信じている人全員が、それを隠しているんだ。 「まさか……死亡時刻をいじってる?」  多岐さんが横を向いて、めちゃくちゃ焦った様子ですぱすぱと煙草を吹かした。この反応。間違いない。――けれど突っこんでしまっていいんだろうか。さすがに怖い。 「泰風会の医師の仕事っていうのは、患者の心臓が止まったあと、その人がしゃべり続ける限り、生きていることにし続ける[#「生きていることにし続ける」に傍点]ことなんじゃない? それって犯――」 「花螺ちゃん!」  多岐さんはそう鋭く叫ぶと、携帯灰皿にぐしぐしと煙草を突っこんで、いきなり私に向かって頭を下げた。 「ごめん、もう誘わない、二度と来ない。だから全部忘れて。園長にも嘘ぴょーんって伝えて。悪かったね、じゃ」  そう言って背中を向け、せかせかと歩き出した。  私はダッシュして、彼の腕にとびついた。 「図星なんですね!?」 「今すぐその腕離してくれると、嬉しいんだけどなあ……」 「離せって、だって、だって!」怖いけれど、とんでもないパンドラの箱を開けてしまった勢いで、変なテンションになっていた。「それが本当なら、伊瀬山市の人間は、町ぐるみ歴史ぐるみ総がかりで、遺言なんか言わない死体がそれを言ったことにして、嘘をつき続けてきたってことに……」  多岐さんはしばらく片足を浮かせたままでじっとしていた。  やがて、はーっと深いため息をつきながら振り向いた。 「いやー、今時の女子高生なんてコスメとプリクラとケータイにしか興味のないスイーツ脳ばっかりだろうと思ってたけど、こんな地雷がいるとはね……」 「地雷ってひどい。当たりなんですね」 「いやあ……まあ、とりあえずこのままほっとくわけにもいかないなと」  前髪をわさりとかきあげると、多岐さんは細い目を向けて言った。 「きみのその説、ものすごい大穴があるの気づいてる?」 「大穴?」 「そう、ジェット機が通れそうなぐらいでかい穴がある。だからそのまま人に話しても、誰も信じない」 「どんな穴ですか?」 「なんで心臓止まった人が日本語しゃべるのよ。――まあ調べてみるといいけど、そんな実例はひとつもないと思うよ。だからきみの話は、ありえない、とされて終わり。犯罪、ナシ。存在しない」  多岐さんは野球の審判みたいにセーフの仕草を繰り返してから、ふんと鼻を鳴らした。 「だから、それはなかったことなんだよ、ほんとに。いろいろ気になる話をして悪かった。これで終わりにしよう、ね?」 「そ……」  そんなのって、どうなんだ。私がさわった、あの手は。あれは模型か何かなのか。そんなはずがない。あれは模型や蝋人形じゃなかった。匂い、しわ、垢、白髪、耳の穴からせり出した綿と、目やにと膜のかかったような目。  間違いなく人間で、けれども、限りなく死人に近かったような気がした。 「……くばり神って、なんなの?」  私は、つかんだままだった多岐さんの腕を強く引いた。彼はまだ隙をついて逃げ出したそうな顔をしている。ここで逃がすわけにはいかない。大事なことが、かかってる。  私が見たのは何者だったのか。金の亡者か、死者か、父か。 「神様がどうかなんて話じゃない。現代の、二十一世紀の言葉で言ったら、あれはなんていうものになるの? 多岐さん何か知らない? お願い、教えて!」 「袖、破れる」 「破るよ!?」  私は大声をあげた。大通りを通りすぎた自転車のお年寄りと、小学生の集団が振り向いた。 「ひでえな、もう……」  多岐さんは苦い顔でつぶやいたけれど、腕を振り払いはしなかった。夕方の空に向かってしばらく視線をさまよわせてから、仕方ない、というように言った。 「取引に応じる気はある?」 「取引って……」 「伯父が――伊瀬山礼三が、きみの願いどおりの男だったら、屋敷を受け取ってほしい。そう約束してくれるなら、真実のもとへ連れてってあげる」 「やっぱり何か知ってるの?」 「ここから先はきみの答え次第」  多岐さんは私の手に触れて、袖から外した。そしてダサ眼鏡越しに試すように笑った。  留保の多い取引だと思った。私の願いどおり? そんなの、あとからいくらでも変更できる。そうでなくても時間を稼げば、相続の話なんて多分立ち消えになる。損な取引には思えない。  私は意を決して、うなずいた。 「いいよ、約束する。その真実とかを、教えて」 「オーケーイ」  多岐さんは私の肩を二度軽く叩くと、さっき降りてきた花咲く斜面を、今度は登りだした。私はあわててスポーツバッグを拾って追う。 「ちょっと、どこ行くの?」 「まあ一緒に登ろうよ。上のほう、見晴らしよくて素敵だよ」 「そうじゃなくて」 「それから、園に戻って挨拶だ。なんとか許可をもらわないとね。きみしっかりしてるから大丈夫だと思うけど」 「許可ってなんの?」 「外泊」  口を開ける私に背を向けて、多岐さんはあまりやる気のなさそうなそぶりで、斜め上の空を指差した。 「今から日帰りで伊瀬山まで往復すんのは無理だからね」        5  結局、外泊許可をもらうことはできなくて、次の日曜の朝から出かけることになった。旅支度とかバイトの都合とかいろいろ理由はあったけれど、最大のネックは多岐さんが見るからに怪しい無職独身三十男だということだった。従兄妹だという説明では、園長はまるで納得してくれず、当日の朝、彼が迎えにくる直前まで、ズボン穿いていきなさいと真剣な顔で勧めていた。 「折々にメールするのよ。やばいと思ったらすぐ逃げて、電車で帰ってくるといいわ」  私自身は多岐さんにその手の危険を感じていなかったので、人前にも出られるよう普通のセーラー服姿で、多岐さんの霊柩車みたいな古臭いクラウンのワゴン車に乗りこんだ。園長の見送りを受けて走り出してからしばらくの間、彼がげっそりした顔でハンドルにもたれかかっていたので、気になって聞いた。 「おなかでも痛いんですか?」 「いや……バックミラーの園長さんがすっごい顔でにらんでたから」 「ちゃんとした名刺出さないからですよ」 「昔は持ってたんだけどね……」  定職についていたことがあったのか。何をやっていたのか聞いたけれど、公務員だったということしか教えてくれなかった。  高速道路をだらだら走って三時間、M県のインターで降りてさらに一時間。海から離れて山ひとつ越えて、大きな中華鍋みたいな盆地に入った。深い森に囲まれて、小さな湖がいくつもあるその盆地の底に、伊瀬山市があった。  列島の動脈からは微妙に外れた位置にあって、前の百年の間はついにブレイクできなかった、ぱっとしない地方都市。味噌とシメジと猿回しの看板が並ぶ国道を走って、全国チェーンのファミレスでお昼を食べた。 「で、真実ってどれですか。これ?」  私がチーズハンバーグをフォークに刺して持ち上げると、多岐さんは場違いにくそ真面目な顔で首を振った。 「あれは食べてもおいしくないんじゃないかなあ」  その言葉の意味は、食後に連れていかれた先でわかった。  郊外の山すそにある、小さな遊園地と物産即売店が合体した、オモチャみたいな観光施設。鉄骨のはしばしににじむ錆の赤茶色と、それを隠すために重ね塗りされたペンキの分厚さで、開設されてから干支《えと》が三回りぐらいしているのがうかがえる。  それでも日曜日であることと、晩秋にしてはやけにあったかい陽気のおかげか、観光バスや家族連れがけっこう来ていた。私は冬服の胸元を扇《あお》ぎながら、音割れした音楽の流れるゲートをくぐった。  その施設に、お猿さんたちがいた。――陣羽織と変なかつらを着せられた、由緒のありそうな猿軍団が、出入り自由の屋外ステージで、楽しげな太鼓とお囃子《はやし》に合わせてトコトコと芸をしていた。  猿回しを眺めながら多岐さんが言った。 「こういう形の、みなに芸を見せて代金をとる猿芝居は、江戸期の寛文年間に起こったと言われている。それより以前は、毎年の正月に猿曵《さるひき》が猿を連れて馬のいる家々を巡り、厩舎の前で祝言を行うという形式だった。さらに遡れば、そのルーツは中国に求めることができる。猿と人は何千年も前から付き合ってきた」 「はあ」  それ以外にどんな返事をしろというのか。 「猿回し……が、求める真実なの?」 「いや、猿回しは関係ないんだ」  多岐さんはあっさり言った。なんなの。 「ただ、伊瀬山には猿が住むということを知ってほしくてね。近年になってから移ってきたものじゃなく、縄文時代からずっといたらしい。今でも野生の猿が多い。大分の高崎山や大阪の箕面《みのお》山、下北半島の群れなどと並んで、伊瀬山のサル群は有名だ」  多岐さんは大きな手振りで遠くの山々を示して、およそ三千頭いると言った。 「種類としてはニホンザルだ。ただ、日本の他の群れとは若干遺伝子が違うらしいことが報告されている。食性や習性も微妙に異なる。地勢的に伊瀬山は他の地方から離れているので、混ざらなかったようだね」 「はあ……」  話自体は興味をそそらないでもない。けれどもその学者めいた語りぶりが、この人の適当そうなイメージにそぐわず、私は戸惑ってしまった。 「お、見てみて、花螺ちゃん。可愛いぞ」  ステージを見ると、ひときわ体の大きな鎧兜のお猿が、スタッフの人から小さな籠を受け取って、客席へと駆け出していった。カップルや小さな子供に、ひょいひょいと何かを渡していく。アメ玉みたいだ。 「よく躾けてあると思うだろう」 「そうですね」 「でも実は違う。伊瀬山の猿は野生の段階でも、人にものを配る」 「ふーん」  私はうなずいた。  しばらくしてから、愕然として振り向いた。 「それって?」 「次、行こう。あ、その前におやつでも食べようか」  多岐さんはこちらへ顔を向けずに、売店へ向かった。  串刺しの味噌焼き餅を買うだけ買ったものの、その足で施設を出てまた車に乗せられてしまった。胸に得体の知れない不安が湧いてきて、私は食欲が起きない。多岐さんは運転しながら口の周りをべたべたにして味噌焼き餅を食べる。もう見るのもいやになってそっぽを向いていると、多岐さんが依然としてくそ真面目な調子で言った。 「悪いけど、二つほど頼みごとをしていいかな」 「気が進まないけど、どうぞ」 「それ今食べちゃって。このあとでまた食欲が落ちるから」 「えええ……そんなところへ行くの?」  私は眉をひそめながらも、透明パックから味噌焼き餅を取り出した。食べ始める前に聞く。 「もうひとつは?」 「ハンカチか何か貸して」  それは絶対いやだったのでティッシュを渡した。  次の目的地に到着したのは二十分後だった。やっぱり山すそにある施設だけど、年代物だという点を除けば雰囲気はさっきと全然違う。コンクリートの塀とフェンスで囲まれた愛想のない四角い建物。ゲートわきには、施設名の書かれたぴかぴかのステンレス製の看板がかかっているけれども、それは最近名前が変わっただけ、のようだった。  林野庁森林総合研究所、伊瀬山試験場。  の、付属資料館前に多岐さんは車を止めた。  そこは一般向けに開放されていて、無料で見学できた。けれどもまあ、当然といえば当然のことだけど、お客なんか誰もいなかった。がらんとしたコンクリの建物に並ぶガラス陳列ケースの間を、私たちはなんとなくぶらぶらと歩いていった。ここも季節にそぐわない暑さで、私は額の汗を何度も拭いたけれど、実は汗をかいたのは暑さのせいばかりじゃない。展示物のせいだった。  生木の裂け目に生えて、木そのものをへし折ってしまったオレンジ色のきのこだとか。平べったい大樽の中でぶつぶつと泡を立てている、灰緑色のねばねばしたものだとか。米作に使う農具なんだろうけど、もやもやした黒っぽいブラシのようなものにびっしりと覆われて、元の形もわからなくなっている机みたいな何かとか。どれも他では見たこともないものばかりで、いやな意味で迫力があった。  ほとんどの展示物の説明板に、伊瀬山市下で採取、と付記してあった。  多岐さんがそれらに目を注ぎながら言う。 「お猿と並ぶ、伊瀬山のもうひとつの名物がこれ――菌類だ。この土地は冬の北風が入り込まない地形で、深い森と水気に恵まれたため、菌類が盛んにはびこった。農産物や金物が、ひどく腐ったりカビたり錆びたりしやすいせいで、カビ山とかサビ山とも呼ばれたそうだ。伊瀬山は『錆山《せいやま》』が訛ったものだなんて話もある。錆は微生物のせいじゃないが、昔の人には違いがわからなかったからね」 「詳しいですね……」 「うん、まあパンフの受け売りだから誉めなくてもいいよ」  多岐さんは入り口でもらったパンフレットをひらりとかざして言った。まあ、そうだろうなとは思った。でも誉めてない。  なんなんだろこの人、インテリぶりたいのかな。昔は学者だったなんてことは、絶対ないと思うんだけど――そんなことを考えながらついていったら、多岐さんはある標本の前で立ち止まった。何も言わずに目で促す。覗いた私は絶句した。  一抱えほどの大きさのガラスの円筒に、やや黄色みを帯びた透明な液体が満たされている。その中にモジャッとした毛の塊が浮いていた。――よく見たら猿の生首だった。  私は反射的に顔を背けた。多岐さんがぐいっとその頭を戻した。 「よく見て」 「いやですよ!」  私は目をつぶる。多岐さんの説明だけが耳から流れこんだ。 「殺したものじゃない、寿命で死んだ猿回しの猿だ。いろいろな芸に長《た》けて、特に仲間や子供に物を配るのが好きな個体だった。こいつが死んだとき、飼い主は地元の施設で剥製にでもしてもらうつもりでここへ持ちこんだが、ちょっと物好きな職員がいて、解剖してみた。そうしたらこれが出てきたってわけだ――」  多岐さんは言葉を切る。頭を離してくれない。仕方なく、私はおずおずと目を開いた。 「うぇ……」  泣きそうになった。猿の頭はただ胴体から切り離されただけじゃなくて、フタでも外したみたいに頭の片方がぱっくり開かれていた。骨と皮の断面が見えて、その内側に保健体育ておなじみのうねうねとしわのある脳が――。  ――脳が、なくて、白いふわふわした脱脂綿が詰まっていた。それを見た私は、少しほっとしつつも、変な話だけど同情してしまった。脳をとられてかわいそう。 「真菌の侵襲により形成された巨大菌塊、アスペルギルス属と思われるが菌種不明、とあるな。とにかくこれ、でっかいキノコかカビなわけだ」 「これカビなの!?」  ほっとするどころじゃない。食べたものが喉元にこみあげて来た。私は多岐さんの手を振り払って床にしゃがみこんだ。 「七十パーセントアルコール液浸標本、作成年は一九八五年、と。三十年近く昔の代物なんだけど、見てのとおりラベルは書き換わってないし、新しい説明も追加されてない。――つまり、この真菌がどこの誰様なのかは、いまだにわかってないというわけね。まあ真菌は現在七万種ぐらい見つかってるんだけど、未知のものがあと百万種いるだろうなんて話もあって、学者の手もなかなか回ってこない。だもんだから、こんな田舎の資料館の隅で、誰の目にも止まらず、僕が子供のころから放置されてるんだ……」 「そ、そんなことより」  淡々と説明する多岐さんに背中を向けたまま、私はなんとか吐き気を抑えて言った。 「カビって生き物に生えるの? 脳の中になんて」 「水虫ってあるでしょ、あれは真菌、カビだよ。爪や皮膚に取り付くことは珍しくないし、鼻の奥や肺で育つこともある。たちの悪いやつは耐性を備えていて薬が全然効かず、こいつみたいにでっかい塊を作って宿主を殺すこともあるそうだ。……大丈夫?」 「んんえ」  私は口を押さえて頭を振り、よろよろとお手洗いへ向かった。  少したって、そのまま外へ出た。明るい陽光を浴びてようやく一息ついていると、あとから多岐さんが出てきて、またいやなことを言った。 「アスペルギルスとかクリプトコッカスなんていう人間につく真菌は、そこらへんの空気中にごく普通に存在してるらしいよ」 「やめてよ、もう!」  私は肩越しにそう怒鳴って、道路のほうへ小走りに出てしまった。この気味の悪いいやな建物から少しでも離れたかった。  そのままゲートを出て田舎道を歩いていると、昭和のクラウンが追いついてきて、のろのろと並んだ。ダサ眼鏡のおっさんが助手席側の窓を開けて話しかける。 「ごめん、花螺ちゃん。さっきのは抵抗力の落ちた病人や年寄りに限った話だよ。若くて元気なきみは大丈夫。僕が保証する」 「………」 「悪かったって。気持ち悪いのはもう終わりだから。もう何もしない。口直しにアイスでも食べて帰ろ、ね?」 「………」 「おーいー。置いてっちゃうぞー」  私は携帯を取り出して――アンテナ立ってるのをこんなに嬉しく思ったことはない――東京の園長にメールを打った。「あっ、なに、報告?」と多岐さんが焦った声で言った。 「めっさセクハラされたって書きました。頭つかまれて、吐くまでいやなもの見せられたって」 「うそ、マジで? それ割と本気でまずい、出入り禁止食らっちゃう。ちょっと、取り消して――」  私は携帯をしまって、クラウンのドアを開け、止まるのを待たずにひょいと乗りこんだ。多岐さんが不思議そうな目で見つめた。 「……乗るの?」 「電車代もったいないです」 「ああ、そう……」  拍子抜けしたような顔で多岐さんはアクセルを踏んだ。私はスカートを整えてシートベルトを締めた。  そして気持ちが落ち着いてから口を開いた。 「あれが真実なんですね」  多岐さんは窓枠に右肘をついて、農道をたらたら流しながら、うなずいた。 「伊瀬山の姓のある主家筋に近い人間は、大体このあたりのことまで、事実を知っている。専門の生物学者や民俗学者に調査を頼んだことはないから、これ以上のことははっきりしない。あとは推測になる。――伊瀬山の地には昔からあれ[#「あれ」に傍点]がいた。猿たちがそれを養っていた。そこに人間が乗りこんで、猿と接触した。あれはおそらく変異を起こして、乗り移った。――まあ、人と動物と菌にまたがる長くて大きな話だ、検証しようったって不可能に近いだろうね」 「伊瀬山は、礼三は」私はじわじわと肌寒さを覚えて、腕をさすりながら尋ねた。「ああ[#「ああ」に傍点]なっていたんですか? 確かに?」 「あれの他に、くばり神というものを説明できる理屈はないみたいだ。解剖すれば見ることができたかもしれない。でもそういうことは行われず、遺体は火葬された。僕たちも人間がああなっているのを、実際に見たことはない」 「あ……泰風会ってそういう病院なんだ!?」私は突然それに気づいて、思わず多岐さんに顔を寄せた。「よその土地の医師に見せると、ばれちゃうから! 身内だけで診察して、処理して! 闇から闇へ葬るための……!」 「本当にきみは鋭いね。――んでも、それはうがちすぎよ」  多岐さんは煙草に火をつけながら言う。 「泰風会は、患者を闇から闇へ葬る暗殺集団なんかじゃないよ。いくらなんでも、このご時世にそんな組織が立ち行くわけがない。くばり神を守ろうとしているのは確かだけど、それも悪いことじゃない――」 「ないわけがないでしょう?」 「悪くないんだよ、くばり神は普通の真菌と違うから。聞いたでしょ、長寿で、自然死を迎えた患者にしか現れないって。あれは、事実を結果のほうから眺めた解釈だよ。本当は、くばり神が患者の健康を保つんだ。あの神様は宿主を何十年も生かして、その間に増殖する。一種の共生が成立するんだろうね」  私は混乱して、ゆっくりと前に向き直った。多岐さんは窓の外めがけてふーっと煙を吐いて、言った。 「くばり神は、よい神だ。だから患者本人も泰風会の連中も、それをあえて治療せずに保とうとするんだ。彼らは全然悪いことをしていないし、患者の意思に背いてもいないさ。――例の件、ただひとつを除けば」 「例の件?」 「きみ突っこんだじゃない。死亡時刻の改竄《かいざん》」 「――ああ」 「生前からくばり神の影響を受ける猿の場合と違って、人間のくばり神が活動を始めるのは、言ったとおり心臓が止まってから[#「心臓が止まってから」に傍点]なんだ。心臓が止まれば、脳に血液が回らなくなり、脳細胞は真っ先に死滅する。その人の脳はもはや機能しなくなる。だが真菌は酸素呼吸しない[#「真菌は酸素呼吸しない」に傍点]。血が巡らず、死につつある肉体の中でも活動を続ける。死んだ脳細胞の代わりに、真菌が、比較的酸欠に強い口や声帯を動かす。――それがくばり神の本質だと考えられる」 「じゃあやっぱり、あの遺言は伊瀬山のものじゃなかった……?」  私が震える声で尋ねると、多岐さんは険しい顔になって私を見た。 「でもね、花螺ちゃん。それだと、真菌が花螺ちゃんの名前を呼んだ[#「真菌が花螺ちゃんの名前を呼んだ」に傍点]ってことになるのよ」 「えっ?」  私は混乱する。多岐さんはかまわずに続ける。 「真菌にそんな知能はない。あるわけないね、カビだもの。だから人の名前や、家族、遺産、償いなどの観念は、患者の脳から引き継いだに違いない。それも、単に知識を得ただけではないはずだ。知識を得ただけなら、名前を知っているだけの相手、有名人や歴史上の人間に、無節操に遺産を配ってしまってもおかしくない。だが、くばり神はそういうことをしない。だから、患者の意思を相当しっかりしたかたちで受け継いでいると考えられるね」  ただ――と多岐さんは付け加える。 「それを真菌自体が理解していたかどうかは、また別の問題だ。患者の強い意思のこだまみたいなものを、機械的に繰り返しただけなのかもしれない。それはわからない……。さて結局、この問題はこういう形に落ち着く」  赤信号で車が止まった。多岐さんは体ごとこちらを向いた。 「きみに屋敷をくれたのは、伯父の遺志を受け継いだ人ならぬもの、くばり神だ。そこに人間が欺瞞を一枚かませることにより、法的に正当化している。これがすべてだ」  私は息を呑んだ。  車がまた走り出す。私は考えこむ。事実はとても、呑みこみにくい形をしていた。伊瀬山はつぐないの気持ちを持っていた。けれどもそれを伝えたのは、くばり神という名の、お化けだった。そこで壊れるはずの相続を、泰風会が仲立ちして成功させたというのだ。  それって、嬉しいのか、不気味なのか、腹立たしいのか。  私はどう受けとめたらいいんだろう。  多岐さんが車を止めて「何アイス?」と聞いた。私は考えに沈んでいたので、適当に手を振って追っぱらう。外へ出た多岐さんがコンビニの袋を片手に戻ってくる。受け取るといちごクランチバーが入っていた。  多岐さんはエンジンをかけながら言う。 「願いどおりだった?」  願いどおりだった。いちご、かつ、クランチなんて一番好きだ。なんでわかったんだろう。これはお礼を言わないわけにはいかない。 「うん、好き。どうもありがとう……」 「いやアイスじゃなくて、伊瀬山礼三がね」 「えっ、あ、そっち?」  私は赤面して、コンビニ袋の口を握り締めた。伊瀬山が願いどおりの男だったかどうか、を私は答えなくちゃいけないのだった。 「伊瀬山は――正直に言って――」 「うんうん」 「わかりません」  身を乗り出していた多岐さんが、肩を落とした。また煙草を取り出そうとする。 「半日ドライブしてその答えかあ。ま、いっぺんにいろいろ教えすぎたとは思うけどさ」 「すみません、でも、多岐さんの話を聞いただけで決めたくないっていうか……」 「でも、あの人がどうだったかなんて、これ以上知ろうと思ったら、それこそ伯母さんとこへ乗り込むぐらいしかないけどねえ」 「――多岐さん」  私は、煙草の箱を握った多岐さんの手首をつかんだ。 「あの、お願いなんですけど」 「あー、はいはい。外で吸うよ」 「じゃなくて。車出してください」 「お?」 「東京の泰風会病院へお願いします。正妻の人には会う気がしないけど、あの人なら――」 「甲子郎に聞いてみる?」 「いいですか? いっしょに会ってもらっても」 「遠慮はいらない、あいつとは同郷で、二十年来の付き合いだから。じゃあ、そこで最後の答えをもらうよ?」  私はわかってきた。この件はもう、屋敷をもらうか断るかなんてことじゃなくて、私が説得されるか、この人に納得させるかの、勝負になっている。いやだと言い続けているだけではだめだってことだ。  その勝負の決着を、そろそろつけなければいけないみたいだった。そう、潮時というやつだ。 「はい、そこで」  多岐さんが煙草をしまい、クラウンを出した。  私はいちごクランチバーを開けた。        6  渋滞につかまってしまい、高速を下りたのは夜八時だった。途中で多岐さんが電話したところでは道風さんは病院にいるという話で、ついてみると日曜日だっていうのに夜勤当直に入っていた。私も多岐さんもこれ以上先伸ばししたくなくて、待つことにした。園長にメールしたら、東京へ戻ったのにどうしてそんなに遅くなるの、お酒なんか飲まされてないか、と超心配したメールが即返ってきたので、直接電話して伊瀬山の主治医に会うと説明した。  処置だか検査だかで忙しいらしい道風さんが時間を空けてくれたのは、十一時を回ってからだった。診察室で顔を合わせたときにはもう、三人ともげっそりしていた。  げっそりしつつも道風さんは、面白そうな目で私たちを見比べて言った。 「何の用かな、廉次。こんな時間に、しかも石沢さんを連れてくるなんて」  あれ、そうなってるの? 私がおまけ? 患者用の椅子に腰掛けた私が、戸惑って多岐さんを見ると、彼は気にするなというように首を振って言った。 「さ、花螺ちゃん。聞いてやって」 「言っていいの?」  全部いいのか、と目顔で尋ねたら、彼はうなずいた。そこで私は伊瀬山市で見てきたことを話した。  それから、一番聞きたかった疑問を道風さんにぶつけた。 「道風先生、以前に、伊瀬山礼三が私を気にかけてたって言ってくれましたよね。それ、想像じゃなくて、実際のところはどうだったんですか。主治医として、あの人のそういう側面を目にしたことが、一度でもありましたか?」  道風さんは難しい顔で私を見つめて、古傷に触れるようにそっと言った。 「石沢さん、きみのお母さんは何も言っていなかった?」 「はい。恨み言を言わない、立派な母でしたけど、逆に懐かしむようなこともなくて……二年前に亡くなりました」 「そうか」道風さんはふうとため息をつくと、穏やかにほほえんで言った。「それなら教えてあげるよ、もう波風も立たないだろうから。――一度だけだけど、ぼくは見たことがある。礼三さんが世間に出せない女の人と娘さんを持っていて、不憫な暮らしをさせている、と漏らしたところを」 「――そうなんですか」 「そうだよ。橡屋敷できみも感じただろうけど、あの人は親身な相手に恵まれなくてね。本心では、きみのお母さんのように欲のない人を求めていたみたいだ。でも、他のすべてを捨てることはできなかった……ということだろうね」  道風さんはうなずいた。  それを聞いた私の胸には、思ってもみなかった感情が湧きあがった。  後悔――。  伊瀬山礼三にそんな気持ちがあるかもしれないなんて、考えもしなかった。もし本当なら、私は罵倒する相手を亡くしたのではなくて、慕うべき――そこまで行かなくても、同情ぐらいはしてもいい相手を、亡くしてしまったことになる。  それを直接確かめる方法はもうない。唯一あった機会には、私は義務感だけで足のしびれをこらえていた。 「くう……」  息が苦しくなって、私は胸元をつかんだ。道風さんの労わるような眼差しを感じた。  そのときだった――私の斜め後ろで、多岐さんが言ったのは。 「甲子郎、嘘はやめてやれよ……」 「多岐さん?」「廉次……」  私はぎこちなく振り返った。付添い人の椅子でうつむいていた多岐さんが、見たことのない鋭い眼差しを道風さんに向けていた。 「礼三伯父が本当に花螺ちゃん親子を思っていたのなら、生前いくらでも償う方法はあった。しかし実際にそうしたのは、くばり神が降りてからだ。彼は死ぬまで二人を無視した、そのこと[#「そのこと」に傍点]が問題の本質だ。そう教えてやることは、できないか? おまえには?」 「廉次、やめなよ。そんなことを言うのは……」 「そうはいかないなあ、おれはこれが言いたくてここへ来たんだから。いいか、甲子郎。おまえたち泰風会の東京組がやってるのは、こういうことだぞ」  肩にそっと手を重ねてくる多岐さんを、私は呆然として見ていた。 「おまえたちは死人の口をこじ開けて、中身を外へぶちまけさせてる。それは出すべきじゃなかったものなんだよ。花螺ちゃんを見ろ。この子には父親なんか必要なかった。立派に老人介護のバイトなんかして、強くやっていた。むしろ悪い父親[#「悪い父親」に傍点]の存在が支えとなっていたんだ。それをおまえ、余計なこと言って揺さぶっちゃって……」 「た、多岐さん、そんなことない」  私は多岐さんの手を握って、懸命に首を振った。 「私、知ってよかった。教えてもらってよかった。あの人が、お父さん、なら」 「そう?」握った手を軽くあげて、多岐さんは目を見張ってみせた。 「でもそれはきみがとても強い人だからだろうね。見てて本当に思った。でも人間はきみほど強い人ばかりじゃない――」  多岐さんは道風さんに目を戻す。 「なあ、そう思わないか、甲子郎。墓の中へと消えるはずだった秘密が、そこらじゅうでぶちまけられ、何百万人もの人間が翻弄される。花螺ちゃんのように経済的に見れば幸運なケースばかりじゃない、不幸や揉め事を引き起こすことだってあるだろう。それを本当に、伊瀬山の外まで広めるつもりか?」 「えっ……」  私は一瞬、彼がなんのことを言っているのかわからなくなった。 「外? 伊瀬山の? って」 「これまでくばり神が伊瀬山市を出たことはない。くばり神が降りそうな人は、みんな故郷へ運ばれてから死んでいた。それも泰風会の役割のひとつだったんだ。ところがこいつらは、甲子郎たちは、礼三伯父を東京で死なせてしまった。無関係な人間のたくさんいる、この街でだ。それがどういうことか――」 「待てよ、廉次」  道風さんが渋い顔で言って、私に目を向けた。 「石沢さん、ここから先はぼくたちだけの話だ。きみは外に出ていてください」 「何を言ってる、花螺ちゃんは礼三伯父の娘だぞ。立派な関係者だ」  多岐さんが薄笑いを浮かべて割りこんだ。私は二人を見比べて声をあげた。 「ちょっと待ってよ、今なんの話なの? どうなってるの!?」 「くばり神は、今際《いまわ》の吐息で広まるんだよ」  多岐さんが私をじっと見つめた。道風さんが天を仰いだ。私はその意味を考えた。  それからすぐに恐ろしい事実を思い出して、自分の喉を押さえた。 「私あのとき、あの人の息……?」 「そういうことだ、花螺ちゃん。きみにも、僕にも、甲子郎にも、おそらくあの屋敷にいた者全員に、くばり神――あの真菌の胞子が入った。いや、大丈夫」  おぞましさに鳥肌が立った。でも、多岐さんは私の肩をがっしりつかんで、首を振った。 「繰り返すけど、あれは人体に害は及ぼさない。体内のほかの菌や細菌を抑えるんだ。影響はない。……何十年か先、きみが死ぬときの一瞬を除けばね」 「そう、上様はそういった御利益《ごりやく》ももたらしてくださる。おかげでぼくはこの十年というもの風邪知らずで過ごしているよ」  多岐さんの言葉を引き取って、道風さんが静かに言った。私はその姿をまっすぐ見られなかった。多岐さんの腕にしがみつく。 「あれが私に? なんとかならないの? 治療法は?」 「ない。――くばり神はとても適応が早い。どんな薬を投与しても、すぐに耐性菌になってしまうそうだ」 「そんな……」  私は絶句して、道風さんに向き直った。 「どうしてそんなことするの! それって、それって」  犯罪、なんて生易しい行為じゃないだろう。伝染性の生き物を街中でばらまいたんだから――。 「テロじゃない! 道風さん、本当にそんなことしたの?」  道風さんはゆっくりと腕を組んで、奇妙に落ち着いた態度で首を振った。 「ぼくたちはテロなどしていないよ」 「私、くばり神なんてほしくないんですけど?」 「そう言うだろうね。普通の人は」 「じゃあ、どうして――!」 「みんなを幸せにしたいから」  私は言葉を切って彼を見つめた。道風さんは、軽い感じの顔に似合わない、ひどく真剣な表情で言った。 「学者じみた理論の話や、青臭いイデオロギーの話はしたくない――けれども石沢さんや廉次、きみたちだって今の社会の運営が、すっかりうまくいっているわけじゃないのはわかるだろう。ぼくたちはとても豊かな国に住んでいるはずなのに、そうは感じていない人がたくさんいる。イメージだけの問題じゃないことは、ジニ係数を始めとする数字からも明らかだ。またこれは日本の中だけの話じゃなく、人類社会全体としても同じ病を抱えている――」 「なんの話? 演説を聴く気分じゃないんだけど」 「価値あるものはみんなでわけよう[#「価値あるものはみんなでわけよう」に傍点]という話だよ。想像してごらん。世間のお金持ちが全員、すべての財産をそれまで虐げてきた人に与えて死ぬんだ。政治家も、官僚も、実業家も、地主も、王族も聖職者も弁護士も、そして医師も――」  道風医師は微笑みながら自分の胸を撫でた。 「富を解放する。何代か続けばすべての人間が平等になる。ほどほどで穏やかな伊瀬山市の暮らしが世界に広がる。御配神様にはそれだけの可能性がある。――テロでは、ないんだ」 「そういう問題じゃない! 人の体に、無断でおかしな生き物を入れるのが悪いって言ってるの!」 「上様はおかしな生き物じゃない。仮にそうだとしても、誰にも裁けない。きみも知ったとおり、真菌のたぐいは環境中にごく普通に見られるものだ。現在のどんな医学や法律に照らしても、橡屋敷で起こったことは、どこにでもいる平凡な男性の老衰死、それだけでしかないんだよ」 「このっ――」  私は頭にきて右手を上げ、思い切り振り抜いた。きれいに道風さんの左頬に当たって、パンッ! といい音がした。  先生!? と隣の診療室からナースさんが顔を出す。道風さんは頬を押さえながらも、だいじょうぶだいじょうぶと鷹揚《おうよう》に手をあげて追い払った。  それからふと、何かに気づいたような顔で多岐さんに目をやった。 「これ? どうして廉次がこの子と一緒にいるのかと思ったけれど、これが見たかったのかい」 「そうだよ。目を覚ませ、甲子郎。おまえがやってるのは、女の子にビンタされるようなことなんだよ」  私は驚いて、多岐さんを振り向いた。 「多岐さんあなた……それが目的だったの? 私に付きまとってたのは、この人を叱らせたかったから?」 「いいや? もちろん目的はきみに納得してもらうことだよ」  多岐さんは私に向かってうなずいてから、道風さんに厳しい目を向ける。 「ただ、こっちのほうが屋敷の相続よりも、多少重要な用件だとは思ってるけどね――」 「多少どころじゃないでしょう、重大問題よ! お願い道風さん、そんなことはやめて。そんな風に人間の意思をねじ曲げるのはよくないよ」  やっぱり多岐さんは相当の食わせ者らしいと気づいたけれど、彼の言うことは確かにそのとおりだった。私は彼と並んで、道風さんに訴えかけた。  道風さんは依然としてあわてず騒がず、落ち着いた態度を崩さなかった。どうしてそんなに余裕があるのかと思ったら、彼はこんなことを言った。 「もう三年目なんだよ。廉次にも言っていなかったけれど」  背中をひやりとしたものが流れたような気がした。うぅ、と多岐さんが喉から変な声を漏らす。  道風さんは、たいていの患者が安心してしまいそうな自信たっぷりの顔で、深くうなずいた。 「これまで六回、伊瀬山の外で上様をお迎え申しあげたが、どこからも、誰からも、おかしな病変が起きたという話は来ていない。その効果も、詳しくは言えないけれどぼちぼちと出ている。――御配神様の紀元が始まったんだ。ぼくたちはそれを見守っている」  私は自分の手のひらを見て、診察室の机の上のいろいろな尖ったものを見て――あきらめた。私の前にいるこの人は、より大きな何かのほんの一部にすぎなくて、叩いても切っても通じない気がしたからだ。  後ろでどさりと、多岐さんが力なく腰を下ろす音がした。        7  咲き誇っていたコスモスは枯れてしまったけれど、斜面は西向きなのでぽかぽかと暖かく、晴れた午後を過ごすにはもってこいだった。三宝園の入浴の順番待ちの間、私は木塚のおばあちゃんと、あと三人ぐらいのお年寄りを連れて、あのぽっかりと現れた広い斜面へ散歩に出た。もとからあった踏み分けの遊歩道に、誰かが持ちこんだ木のベンチが置かれていた。何か言われたら出ればいいやと思って、そこに座って日向ぼっこをした。 「こりゃあ、いい公園ができたねえ。いい眺めだ。エツさん、あそこ、あそこ」 「電車か? 阪急線だ、間違いない、阪急線だね」 「いやああ、何を言っとるの。さーくーら、迎え堤の桜。あれは春になったらきれいだよう」  電車が走り、車が行き交い、小学生たちが校庭を駆け回る。お年寄りたちは目のいい人も悪い人も、あっちこっち指差して楽しげにおしゃべりしている。うっかり転んでも落っこちてしまうほど急な斜面じゃないし、これはほんとにいい場所だ。  私がみんなに目を配りながらぶらぶら歩いていると、斜面の下から、ボサ頭ダサ眼鏡のくたびれたコート姿が登ってきた。私たちのところまでたどりつくと、額の汗を拭ってコートを脱ぐ。 「暑いなあ、ここ。汗かいちゃった」 「車は? 多岐さん」 「都内の近場回るのに出さないよ、そんなもの」  言いながら煙草を取り出そうとしたので、私は斜面のはしを指差した。 「禁煙」 「屋外じゃん……」 「だから風下で吸って。ていうかやめてください、いい加減に」 「文化なのに」 「屋敷もそのうち禁煙にするから」 「勘弁してよ、いまほんっと吸う場所ないんだから」  ぶつぶつ言いながら多岐さんは風下へ動いた。みんなの様子を確かめてから、私も彼についていった。 「で、御用は?」 「んー、いろいろ終わりました、ご主人様」 「やめてそれ、きもい」  言いながら私は、多岐さんが鞄から出した革装の書類綴じを受け取った。中を開くと、住所氏名が書かれて割り印の打たれた紙がいっぱい綴じてあった。  それで私が例の屋敷の主人になった、というかそのうちなるよう定まったらしいのだけど、もちろん実感はまったくなかった。私は書類を見もせず閉じた。  多岐さんが口を出す。 「ちゃんと確かめてくれなきゃ」 「あとでいい、ていうか今、仕事中なんですけど」 「仕事続けるの? もう寝てても食える身分になったのに」 「やめません。そんなこと言われると背中がぞわぞわしてくる」  住むつもりも売るつもりもないのになぜ受け取ったのか、自分でもまだはっきりわからない。わからないから受け取った、というのが一番心情に近い気がする。父、伊瀬山礼三は法的にそれを私に遺し、医学的には遺さなかった。けれども自分にくばり神が降りて誰かに配ることは予想していたはずだ。なのにそれを予防する措置を講じなかった。私に対してだけでなく、誰に対しても、だ。つまり彼はおそらく生前から、法と道徳が命じる以上の慈善を施すつもりでいた。  それをもって彼が善人だった、と思ってあげられるほど私は優しくない。でも人間の考えに複雑な陰影があること、それが時として変化することはなんとなくわかった気がする。しいて言うならそう思ったとき、私は受け取る気になった。私自身の見解や意見もいずれきっと変わるだろうと想像したから。屋敷を捨てるのは後からでもできる。誰かにあげたくなる可能性だってないわけじゃない。園長にもそう話して、納得してもらった。 「車のガソリン代ほしいんだけど、庭のとっつきの老松売っちゃっていいかなあ」 「ガソリン代? に、松? あんなの売れるの?」 「出入りの植木屋がよだれ流してほしがってる。二百万でどうかなんて話してるけど」 「三百万に育つまで待ったら?」 「枯れちゃうよ……」  しょぼくれる無職中年の多岐さんは、はっきり言って私を食い物にしている気がする。今回の成り行きでお金と権利がどう動いてどう落ち着いたのか、私にはさっぱりわからない。第三者である弁護士さんと話して、多岐さんが横取りなんかしていないと確かめたけど、この人だったら弁護士さんの監視ぐらいごまかせると思う。どっちにしろ屋敷をもらった以上は法律上、放っとくわけにはいかず、建前だけでも住んでいます、と言い張るために誰か人を置かなきゃいけないそうで、適当なのはこの人しかいなかった。だから管理人を続けてもらっている。でも給料は出していない。何をして食べているのかわからない。怖くて深く聞けない。 「じゃあ鯉売っていいかな。錦鯉。素人のぼくが見てても殺しちゃうかもしれないから……」 「図書館でも行って飼育法勉強してください」  黙っていたら片っぱしから売り払っちゃって、土台石ぐらいしか残らない気がする。屋敷を誰かにあげるかもしれないといっても、この人だけは例外だ。皮肉なことに。 「干上がっちゃうよ」 「普通に働いてくださいよ、どこかで!」  私は思わず怒鳴った。それからつい愚痴ってしまった。 「なんで私だけこんな目にあうんですか。親族にはいじめられるし、うさんくさい中年に付きまとわれるし、おまけに変なカビに取り付かれるし。マジでもう泣きそう」 「そのうさんくさい中年が親族のいじめを防いでいるんだから、盛大に感謝してほしいなあ」 「それ本当なの? 口先だけじゃない?」  多岐さんはにやにやとよくわからない笑みを浮かべる。いらない用心棒を無理に雇わされている商人の気分。  するとやおら多岐さんは笑ったまま、少し顔を寄せてきた。 「カビをなんとかする方法、教えようか」 「治療法見つかったのっ!?」  思わず私は食いついてしまった。あのあと、くばり神を抑えようといろいろやってみたけど結局無駄だった。真っ先に訪れた警察では妄想癖の痛い子だと思われて終わり。他の医療機関やウェブサイトを持っている科学者の人にも話したけれど、どこでも丁重にお断りされた。こちらに何ひとつ現物がないのがつらかった。父の遺体が残っていればよかったのに。  多岐さんには、独自の人脈があるのかもしれないと思わせる怪しさがある。私が藁にもすがる思いで訊くと、彼はこうささやいた。 「いいことを続けるんだ」 「……え?」 「生きている間から、歳を取って死ぬまで、善行を積むんだよ。ひとつの後悔も残らないように。さすれば汝《なんじ》死の床に伏せりしとき、異教の神の現れることなかるべし」 「本当なの?」 「言い伝えではね。やはり、やり残したことへの妄執が、くばり神を育てるんだろう」 「それは――」私は肩を落として、息をついた。「むっずかし……聖人しか無理じゃないの」 「そう? きみならできそうな気がするけどな。花螺ちゃん」 「何を――」  言い返そうとして、やめた。すごく突っこみづらい、いい笑顔だった。 「カランカラーン」  呼びながら園長がやってきた。ただのカラでは発音しにくいと言って、あの人はいつもそんなふうに呼ぶ。カウベルか私。 「はいー」 「さっき例の人が行ったけど、大丈夫ー?」 「無事です――」 「ぼく、まだ不審者扱いなの?」 「まあ当分は?」  彼を置いて私はベンチに戻った。お風呂の時間が来たので、みんなに手を貸して道路へ上げる。手伝ってくれながら園長が言った。 「ここね、このベンチ。ずっと使ってていいそうだから」 「あ、そうなんだ。って誰から聞いたの?」 「地主さん。先週ここで会ったの。ひょんなことで相続した土地だけど、使い道がないから当分空けておいてくれるって」  私は棒立ちになってしまった。振り返ると、多岐さんと目があった。どうしようもないね、というように肩をすくめる。  確かに、どうしようもない。――道風さんたちの計画は音もなく進んでいる。くばり神の入った人は健康になってしまうから医者にかかることが減る。検査で見つかることはほとんどない。自然に老衰死するから解剖されることもない。殺人の被害者にでもなれば話は別だけど、そんな場合には遺言も残さないから、くばり神は見つからない。  そう、くばり神は見つからないのだ。この空き地を遺してくれた人がそうだったのかどうかも――確かめようがない。きっと東京中、日本中でそんなことが増える。ううん、国内に限る理由もない……。  それを避けるには――避けたと思いながら死ぬためには――多岐さんの言うとおりにするしかないんだろう。 「花螺ちゃん、花螺ちゃん。あんたね、マフラーとキャップ、どっちがいい?」  八十二歳の木塚さんが、よっこらよっこら歩きながら言う。私は車道側に立って車に気をつけながら答える。 「なに、私にくれるの?」 「ボケの防止に、編み物をね、やるんだ。たくさん作って、みんなに上げる。何がいい?」 「キャップがいいな、耳あてのついたやつ――」  私ふとと思いついて、訊いてみた。 「木塚さん、男物も頼める?」 「男物は、得意だよ。むかあし、よく作ったからね」  木塚さんはそう言って、実に得意げにうなずいた。そりゃそうか、と私は納得してしまった。そういう生き方で、八十二年もやってこられたんだ。私は振り返って、大きく片手を上げた。 「多岐さーん、マフラーとキャップ、どっちがいい?」 [#改ページ] [#ページの左右中央] [#見出し]  トネイロ会の非殺人事件 [#改ページ]        1  あんなことをやった後だというのに、目覚めは思いのほか爽快だった。元准教授の静歌《しずか》は十代のころの夏休みのように、身軽にベッドから降り立った。片腕を上げて思い切り伸びをする。薄く開けた窓から白い朝日としっとりした森の風が入り、レースのカーテンを揺らしている。分譲別荘の宣伝ビデオみたいな光景だと思ったけれど、そんな皮肉もすぐ頭から消えた。今朝はこのすがすがしさを素直に楽しもう。悩みは消えたのだから。悪夢は終わったのだから。  あの男、一代一人《いちだいかずと》は消えたのだから。  ――たぶん。 「ふあぁ……おはよおー、静歌さん」  部屋には二段ベッドが二つある。向かいのべッドの下段で、未亡人のほとり[#「ほとり」に傍点]が目をこすりながら身を起こした。壁を眺めてしばらくぼんやりしてから、またゆっくりと伸びをする。薄茶の髪もネグリジェに浮き出る体型もふんわりとして柔らかく、二十代半ばぐらいの若さに見える。昨夜は変なテンションになった皓一《こういち》に、ほとりさんマジゆるふわで素敵っスよ、と持ち上げられていた。それが女の静歌から見てもその通りだと思えるのが、彼女の魅力だろう。  ほとりの上のべッドはすでに空だ。競技会に落ちたアスリートの翔子《しょうこ》は、先に起きて出ていったらしい。高原の静かな道に誘われてロードワークにでも行ったのかもしれない。森の中を駆けていく細身で筋肉質の姿が想像できた。  そして振り返ると、静歌の上段にあるべッドで、小動物のような瞳が布団の裾から覗いていた。 「あら、起きてた。下りられる?」  補導歴のある女子高生の沙夕良《さゆら》が、高級ドールのように整った小さな顔をおずおずと出して、はにかみながらうなずいた。  顔を洗って薄い夏服に着替えて、三人は部屋を出た。どこか懐かしいニスの匂いの立ちこめる木造ペンションの廊下を歩いて、玄関ホールヘの階段を降りる。階段下にある、ソファと切り株を半々に配した談話室では、男性陣がくつろいでいた。三人を見ると手を上げた。 「おはっす」「おはよう、ほとりさん!」「やあー、元気そうだねえ」  老若合わせて、四人がそこにいた。借金持ちの外構工事人の雄大《ゆうだい》だけが無言だが、それも別に機嫌が悪いわけではなく、いつもどおりの寡黙さを保っているだけらしかった。斜めの包帯で隠されていないほうの片目に、柔和な光が宿り、大きな体から穏やかな雰囲気が漂っていた。  挨拶をした三人に手を上げてから、静歌は談話室を見回した。 「守吉《もりよし》さんと、風《ふう》さんは? 奥?」 「奥じゃない?」 「バッカ、風さんはまだだよ」 「うるせえよ誰が馬鹿だよてめえ、なんでそう言えんだよ」 「オレは一番にここへ来て待ってたんだよ!」 「待ってたのは風さんじゃなくてほとりさんだろうがよ」  減給されたバス運転手の皓一と、クビになった雇われパチンコ店長の悦耶《えつや》が血気盛んに喚《わめ》きあう。その間で、元事業家の始《はじめ》がのんびりと言った。 「守吉さんは外へ行ったね」 「あらそう。風さんがまだなら、朝食はまだかな」 「おなか空いたんだけどなあ」  ほとりが物欲しそうな声を漏らしたが、さほど不満というわけでもなさそうだった。  静歌たちは男性陣の輪に加わって、しばらく好きな朝食や天気の話などを続けた。沙夕良は一番はしの切り株で、ちょこんと可愛らしく身を縮めていた。  みんな上機嫌だった! ――この場の四人の男性と三人の女性の誰もが、程度の差はあれ笑顔を浮かべ、心軽く言葉を交わしていた。この場にいない三人もきっと同じ気分だろう。もっともその三人のうち風太郎《ふうたろう》は、まだ眠ったままで、この気持ちを味わっていないかもしれない。というのは、起きていればとっくに厨房に立って食事を用意しているはずだからだ。  風太郎はこのペンションの離婚した主人であり、昨夜の計画を立案した男だ。  談笑していた静歌は、しばらくして手洗いに立った。  一階廊下の先にちらりと目をやって、客室のドアの一つに、大きなブドウの房のような透明なものがぶら下がっているのを見た。  軽く背筋を震わせ、胸をどきどきさせながら用を足して、談話室へ戻った。  ジャージを着た若い女と、ポロシャツにチノパン姿の初老の男が戻っていた。女のほうが翔子で、やはり走りにいっていたらしく、頬にうっすらと汗が光っている。もうひとりは、寺の住職をしている守吉だ。膝に中折れ帽を乗せているから、やはりひと歩きしてきたのだろう。  彼は一行の十人の中でもっとも苦悩しているはずだ。気を遣って、静歌は声をかけた。 「守吉さん、おはようございます。どちらへ行ってらしたの?」 「おはようございます。わたくしは、川へ斎戒《さいかい》に行っておりました」 「サイカイ?」 「心身を清めて、罪障を滅することです」  それはうまくいったんじゃないかな、と静歌は思った。――彼に初めて会ったときからその眉間に居座っていた深いしわが、今朝は少しだけ薄れたみたいだった。  翔子は翔子で、どういうわけか、祖父ほども歳の離れた始の肩を揉んでいる。いや、歳が離れているからこそ親しくなったのかもしれない。二人の笑顔にはどちらも邪気がない。  そうこうするうちに階段板をトントンと鳴らして、風太郎が二階から降りてきた。粋な口ひげを生やして、ひょろりとした長身にサマーセーターを着こなし、ごつい手と明るいおどけた目をした、絵に描いたような「ペンションの主人」だ。みんなが声をかける。 「おはようっス!」「風さん、遅いじゃないスかー」「もうみんな起きてるよ」「おなか空きましたぁ!」 「やあやあやあ、悪い悪い悪い。すみませんね、ボクもさすがに、昨晩は寝付けなくて」  何度も手刀を切って拝むと、風太郎は指を三本ピッと立てた。 「それじゃこれから急いで朝の支度をしますからね。三人ほど手伝ってもらえるとうれしいな。みんなで決めて厨房へ来てもらえる?」  言うだけ言って、風太郎はひょろひょろとした足取りで、厨房のある奥へと向かった。手伝いと聞いて、一同は顔を見合わせる。 「料理のできるひと?」 「あ、わたし好きですよぉ」 「ほとりさん料理好きなんですか! オレもっスよ、オレも!」 「その透けて見えすぎる性欲を少し抑えろよおめーはよ」 「性欲? 性欲とか品のないこと言うなよおまえ。そういう発想しかないの?」 「おれの発想は紳士だよ、おめーの出すオーラがギラギラしてんだよオーラが」 「いやオーラは皓一くんのほうがきれいだと思うな。悦耶さんのがエロいよ、きっと」 「つかさあ翔子ちゃん? 何そういうのわかるの? 経験で?」  二人の青年のあいだに歳の近い翔子が口を挟み、剣突《けんつく》の食らわせあいが悪化する。しかし誰も止めようとしない。寡黙な雄大も内気な沙夕良もまぶしげに見つめている。僧職にある守吉ですら暝目して黙っており、学者肌の静歌も微笑していた。  そこへなぜか風太郎が戻ってきた。腕組みして口を曲げている。白髪頭の始が気づいて、楽しげに罵倒しあう二人をいさめた。 「皓一くん、悦耶くん、ちょっと、ねえ」  一同が視線を向けると、風太郎は背後へ顎をしゃくってみせた。 「今ちょっと、仕掛けを確かめたんですけどね」 「――もしかして、まだ?」 「いや、まだってことはない、それは大丈夫です。でもね」  おかしな理由でこの場にあつまった九人の男女を見回して、風太郎は事件を告げた。 「このトネイロ会に、犯人じゃない人がいるみたいですね」  静歌は、そこに吹いていた風が止まったような気がした。        2 「どういうこと?」  静歌が言うと、風太郎が無言で手招きした。後に従って全員がぞろぞろと歩いていくと、廊下の床がギシギシと派手に鳴った。  ペンションの主人は一室のドアの前で立ち止まって、くり返した。 「いま確かめたんだけどね」  そのドアの上辺からぶら下がっているのは二リットルの四角いぺットボトルだ。どれも透明な液体が入っており、中でも三本は、口元まで満タンではち切れそうに膨らんでいる。  十本のひもでぶら下げられた、一本ずつのボトル。鈴なり、というのがふさわしい。  そのうちの一つを風太郎は持ち上げた。 「ほら」  空だった。よく見るとその一本だけは中身が入っていなかった。 「誰?」  半円形にドアを囲んだ九人が、互いに顔を見合わせた。だが、自分だと言い出すものはいない。  風太郎がくり返す。 「間違えるようなことじゃないですよね。水を入れて、ここにぶら下げる。それだけでいい。必ずそうするって決めたはずです。それとも、誰か勘違いした? 緊張して。だったら申し出てほしいな。今ならまだ間に合う」 「間に合う? いちだ――それは、もう済んだんでしょう?」  口を挟んだものの、名前を口に出すのはまだ抵抗があった。静歌はそう言い換えた。 「確かめる?」  風太郎が鍵を外してドアを薄く開けた。静歌は身を硬くして中を覗きこむ。  すぐに息を呑み、はじかれたように身を引いた。  一同が静歌の様子を見て、同じように緊張する。風太郎が体重をかけて再びドアを閉めた。 「ごらんの通り、やるべきことは終わってるよ。でもね、心構えの問題として、意志の問題として、全員に実行してほしいと思うんですね、ボクは」  再び沈黙。さっきまで和気あいあいとしていたみんなの顔に不安の影が差し、いくつもの視線がわざとらしくよそを向く。翔子が神経質に靴下を引き上げ、雄大はやたらとボトルをひねくり回していた。  ほとりが悲しそうに周りを見回した。 「わたしはぶら下げたわ。みんなもやってくれたんじゃないの? 皓一くん? 沙夕良ちゃん?」 「お、オレはちゃんとやりましたよ? ほら、そこの一番ひもの短いやつ!」  皓一があわてふためいて指差したが、どれが一番短いのか、少なくとも静歌には見分けがつかなかった。沙夕良は黙って苦しそうに首を左右に振った。  風太郎が険しい顔で言う。 「みんなだんまりか? そうか……これは困ったなあ」 「ええ、皆さん」  低いがよく通る声で言ったのは、住職の守吉だ。みんなが振り返る。 「ひとまず、食事にいたしましょう。風太さん、支度をお願いします」 「ちょっと、こんなときにご飯? それどころじゃなくない?」  翔子が抗議したが、何を思ったのか、始も言った。 「まあ、腹が減ってはなんとやらだ。いいんじゃないかねえ? 翔子ちゃん」 「始さんがそう言うなら……」  トーンダウンしたところで、風太郎があっけらかんと言った。 「よろしい、さっさと食べましょう。お手伝いはもう決まった?」  結局、全員で支度をすることになった。風太郎がコンロで火を使いながら指示を出し、みんながてきぱきと、あるいはもたもたと動いて食卓を整えた。  皓一が荒っぽくカトラリーを並べながらぼやいた。 「ったくよう、信じられねえぜ。あの野郎をころ……やっつけるチャンスがせっかく来たっていうのに、みすみす見逃しちまうやつがいるなんてよ。馬鹿じゃねえの」 「皓一くん皓一くん、そんなふうに言っちゃあ、ねえ。この中にいるんだから」 「あっ……そうか」  オーブントースターでパンを焼いていた始にたしなめられて、皓一がばつが悪そうにみんなを見る。そんな彼に、グレープフルーツを黙々とスクイーザーにかけていた悦耶が、意地の悪い笑みを向けた。 「馬鹿は誰かねえ。全員が同じ気持ちでいるなんて幻想抱くほうが甘いんじゃねえの?」 「全員同じ気持ちだからトネイロ会を結成したんじゃないか。あ? おまえは違うっての?」 「人の内心なんてわからんってことだよ」悦耶は野菜を切っているほとりや、花瓶に花を生けている翔子に目をやって、言う。「大きく見れば協同しているようでも、細かなところではみんな違うと思うぜ。十人十色っていうだろ」 「なんだよ。おまえほとりさんが嘘ついてるっていうの?」 「んなこと言ってねえだろ? すぐそっちに結びつけんなや。ってかよ、仮にほとりさんがやってないとしたら、それは怒るようなことか?」 「どういう意味だよ」 「だってそのひとりだけが人殺しをためらったってことよ? むしろ人として普通じゃね?」  伸ばした髪を茶色に染めている彼にふさわしい、軽薄な口調だった。  だが口調に反して内容は至極まっとうであり、またしてもその場の空気が凍りつきそうになった。  静歌は彼の目の前に手を伸ばして、果物かごからナイフを抜き取る。「おっとぉ?」と悦耶が緊張した声を上げる。 「次、貸してって言ってるでしょ。ミカン切るんだから」  肩をすくめる悦耶を措《お》いて、静歌はデザートの冷凍ミカンを切りにかかった。堅くて刃が通らず、体重をかける。食いしばった歯の間から声を押し出す。 「人として普通かどうかなんて、それこそ誰にも言えないんじゃない。恨みの深さによるわよ。少なくとも私は、やる気がためらいに打ち勝った。やる気、はっきり言えば殺意ね。あいつに死んでほしいと思った。私が受けてきた仕打ちに比べれば――んっんっと!」  ザコン! とナイフがまな板を打ち、凍ったミカンが両断された。  沈黙の中で、半分になったミカンがくるくるとスピンした。唖然としていた翔子が、おそるおそる言った。 「静歌さん。それ、融けてから切ったほうがいいんじゃない?」 「ん? あ、そうか。思いつかんかった」  後でいいか、と静歌はナイフを置いてため息をついた。 「あー、静歌さん……」間延びした口調で言ったのは、雄大だ。片付け担当ということになったので、今のところは部屋の隅で大きな体を縮めている。「そのー、被害なに?」 「なんですって?」 「被害……静歌さんの」 「ああ、あなたには話してなかったっけ。ええと」パサついた髪を耳の上にかきあげる。「使いこみよ。勤めていた大学で、学部のお金、一代会の会費に充てちゃって」 「警察には?」 「それはバレてないはず。学部長が内密に立て替えてくれて。でもそんなことして許してもらえるわけないよね。事が明るみに出る前にって……バイバイ、依願退職。研究もキャリアもパー」  苦い笑みを浮かべて、静歌は首を振った。  それから顔を上げて、みんなを見回した。 「そういえば……今まで個々に面談したことはあったけど、全員そろっているところで話したこと、なかったね。ちょっと話そうか。ねえ、風さんたち、聞こえてる?」  流しに並んでいる風太郎と沙夕良とほとりが、肩越しにうなずいた。スープをつけていた始と守吉の年配組も「いいよ」とうなずく。  それを受けて、静歌は壁際の男に目を向けた。 「じゃあ雄大くんから。あなたの被害は?」 「ぼくはトラックとコレと……あと少し」  コレ、と言いながら彼は片目を覆う包帯を指差した。雄弁ではない彼に代わって、始が助け舟を出す。 「雄大くんはねえ、借金返済のために仕事用のトラックを売って、それで師匠に義理を欠いて殴られちゃったんだって」 「トラックをねえ。あと少しっていうのは?」 「アパートも追い出されたとか」 「じゃあ今、家なしなの!? そっちのほうが重大じゃない」  驚く一同に、雄大は無言でうなずいてみせた。静歌が目を動かす。 「じゃあ悦耶くんは」 「おれはあんたと一緒っスよ、ねーさん。店の金使いこんで、返済にカード五枚作らされた上で、クビ。ブラックリスト入りしちゃったんで、同業にはもう勤めらんね。でもまあ、うちのおかんも言ってたけど、まだ最悪ってわけじゃないね。この業界、タマ取られるような話がいくらでも転がってっから、それに比べればマシ」 「タマってなんのこと? ああ、やっぱりいいわ、取られて嬉しいようなものじゃないのね。次、翔子ちゃんは?」 「あたしはその……やっぱり使いこみ、っていうのかな。親からもらったお金なんだけど」 「会費にするって言ったの?」 「そんなこと言えるわけないじゃないですか」強い口調で言い返したものの、翔子はうつむいた。「言ったほうがよかったのかな? こんなことになるぐらいだったら。そのお金って、競技会の遠征用だったんです。でもあたし、そのときは競技会より評判のほうが大事だと思って――ほら、記録は努力すれば出せるけど、いったん広まった悪い噂は消えないじゃないですか――欠席したんです、遠征。そしたら」  翔子は涙ぐんで鼻をすすった。 「練習態度が不真面目だってことになって、お金の使い道も問い詰められて。もちろん答えられないじゃないですか。そしたら、もう走らなくていいなんて言われて――結局、除名になりました。選手名簿」 「……次、皓一くんは」 「まあ、お金っスよ、要は」思い出すのも不愉快らしく、ぶすっとした顔で若いバス運転手が話した。「オレはわりと周りと仲良かったスからね。同僚からちょこちょこ貸してもらって。三万とか、五万とか。けどやっぱり甘かったんスね。そのうち上司にバレて、叱られて……まあ減俸で済んだんスけど、一度ダメにした人間関係は戻りませんでした。もう肩身狭くって。多分近いうちにやめます」  それが人を殺すほどの動機か、と思ったのは静歌だけではなかったはずだ。何人かがそんな顔をしていた。しかし誰も口に出すことはなかった。 「わたくしの場合は、森でした」守吉が抑制の利いた声で語り出す。「そこにいたるまでのいきさつはみなさんと同じですが、借金のカタとして、寛政のころから当寺が守り継いできた森を切り売りすることになりました。相手は評判のよくない産廃処理業者です。実にまったく……」  無念そうに言葉を切ると、守吉は両手を合わせてぶつぶつと何かを唱えた。 「ボクはこのペンションを来月売る。相手は値上がり目的の投資家、二束三文だ。奥さんにも逃げられた。理由としては十分だと思ってるね」  風太郎が飄々とそう言ったあとで、フライパンを覗いて、ひとこと付け加えた。 「みんな、悪い。目玉焼きがコゲちゃった」 「あ、じゃあわたしがおコゲもらいますう、好きだから」  そう言ったのはほとりだ。みんなの目を向けられて、笑ってみせる。 「ケンちゃんが生きてたころに、いつも作ってくれたんですよお、コゲたまご。体に悪いって言われたけど、わたしコゲてるほうがよくって。そうそう、ちょうどこれぐらい」  風太郎の手からフライパンを取って、覚束《おぼつか》ない手つきで大皿に流しこんでから、未亡人はうっすらと涙を浮かべた。 「事故で亡くなったときも、こんなにって思うぐらい、お金遺してくれたんです。それが……全部取られちゃうなんて、ひどいよねえ」  ぶしゅー、と辺りをはばからない大きな音が響いたのは、始が鼻をかんだのだ。彼は先ほどからずっともらい泣きしていた。「みんなほんとに、苦労しちゃって……」とつぶやいていたが、自分の番が回って来たのに気づくと、眼鏡の下の目を拭いてから顔を上げた。 「私はねえー、みんなと比べれば、ほんとたいしたことないですよ。女房とはもう十年も前に死に別れてたし、事業ももうすぐ畳もうと思ってたし、ねえ?」 「工場取られたって聞きましたけど?」 「まあねえ、取られたけど小ちゃいコウバでねー。土地建物と産業用の井戸で四千万、設備が六千万ぐらいですよ。もう操業やめてたけどねー」  アハハハ、と乾いた笑い声が静かな食堂に響いた。  残りはあとひとりだった。だが誰も彼女に話を促せなかった。ずっと無表情なままの、小さな硬い感じの少女。沈黙を破って、悦耶が片手を挙げた。 「んっとさ。沙夕良ちゃんは、まあいいよね。この歳でこの場にいるってこと自体、強い動機がなきゃありえないし」 「私、私の被害は」  一度咳きこんで言い直してから、沙夕良はポシェットから位牌を取り出し、キッチンカウンターに立てた。 「心労でお母さんが死にました」  ぶしゅー、とまた始が鼻をかんだ。  風太郎が、静歌を見る。 「十人全員、動機は十分……かな?」 「わからないけど」  静歌はナイフの刃をためつすがめつ見てから、もう一度冷凍ミカンにあてがう。 「これだけは言える。十人分の被害を合わせれば――いえ、三人分程度でも? ――一代を殺す十分な理由になったってこと」  霜の融けかけたミカンはサクリと切れた。心地よい手ごたえ。        3  一代一人という名は間違いなく彼の本名ではなかった。だが、使い捨ての偽名でもなかったように静歌は思う。けっこうな自負の感じられる名前だ。おそらく本人も第二の本名ていどには考えていたのではないか。でなくても第三の。  昔どんな人間だったのかはわからなかったし、すべてが終わった今でも結局わかっていない。出会ってから昨日の夕方までの間については、多少の、そして強烈に明らかなことがわかっている。  彼は悪人だった。悪をなす能力があるという意味でも、何のためらいもなくそれを行使するという意味でも、そうだった。  悪をなすという行為のうちには、善人を装うということも含まれる。一代は不思議な才能で弱い人を見つけて、寄り添っては耳を傾け、何百回でもうなずいて孤独を癒した。相手が徐々に心を開いていき、すっかり信用するようになるまでそれを続けた。  彼は恨みや嫉妬を抱える人に狙いをつけた。たとえば強い立場を利用して嫌がらせをする上司や、コンマ一秒だけ速いライバルや、長年の商売敵を、人は恨む。そんな恨みを持つ男女が一代の獲物だった。彼は深く同情し、自分も同じだと打ち明けて、実はこんな嫌なやつが自分の近くにもいるのだ、と語った。  そして翌週にその嫌なやつをやっつけた。――やっつけたというのは、主に社会的に失脚させたという意味だ。多くの知能犯がそうするように、一代もネット上での活動に力を注いでおり、ネット上において嫌なやつの評判を打ち壊し、泥にまみれさせた。  子供たちの学校や、一流の会社や、地方の田園地帯や、高齢者の社会が薄暗いネットの世界と無縁でいられたのは、もうずいぶん前の話だ。今ではあるクラスで生徙のひとりが暴力沙汰を起こせば、二日後にはネットに漏れて学校中はおろか日本中に知れ渡るし、県庁から四十キロ離れた谷川の集落から組合長の女遊びをつぶやけば、週明けには記者の殺到と当人の謝罪会見のどちらが早いかという競争になる。  何かを壊す流れをネットはとてもスムーズに作る。一代はその流れの調整に「偶然運よく」あるいは「何とかがんばって」成功した、という話を、獲物に対して実にうまく語った。これまで嫌なやつにずいぶん苦しめられてきたけど、ようやくやっつけることができた。少しだけ気が晴れたよ。  それを聞いた獲物は思う。――そんなに簡単にひとの人生をねじ曲げられるんだ。そんなに身近な人にまで、ネットの影響力は届くんだ。それで手を下したのが誰かということは、まるでバレないんだ。  その方法……もう少し、詳しく教えてもらえない?  もちろん一代一人は正真正銘の人間なのだが、もし彼が悪魔で、要求している報酬が魂だとしたら、獲物がそれを渡してしまったのはこの時だということになる。  それからもう少しのあいだだけ、一代は善人のふりを続ける。もう少しというのは獲物から十分な情報を引き出すまでだ。獲物は自分を苦しめている嫌なやつを倒すため、献身的に情報を渡し続ける。しばしばその合間には呪いの言葉をふんだんに差し挟む。  時が来ると一代は善人のふりをやめて、永久に抜けない牙をおもむろに獲物の首に打ちこむ。  それまで嬉々として負の感情をさらし続けた獲物に対して、プリントアウトしたメールのログと恨み言を編巣したCD-ROMと盗撮した顔写真を突然送りつけ、流言の乱れ飛ぶ月一千万PV以上の八つの著名BBSとPtoP界隈に、これらを一度にアップする、と無造作に告げるのだ。  獲物は崩れる。  信頼が、とか、態度が、とかではなく、床や椅子の上に体ごと物理的に崩れる。  自分ですらあのときのショックを思い出すと、貧血のように頭が冷たくなる――K大材料工学科の准教授だった、本名・江口《えぐち》静歌は今このペンションにいても苦渋に満ちた顔になる。一年半ほど前の秋の初め、休み明けで久しぶりに研究室に出てみると、山をなす学会誌や郵便物の束にもたれて爆弾が置いてあった。爆弾はいっけん着替えのセーターだとかタオルの詰めこまれた紙袋そっくりの雰囲気をしており、自分宛の表書きを見た静歌は、自分がどこかの出張先に忘れたものを誰かが送ってくれたのだろうとすら思った。赤い字で緊急と書いてあったので、贈り物の生ものでも入っているのかもしれないと、今から思えば甘いにもほどがある期待を抱いて袋を開けてみた。中にはビニールの緩衝材と書類とCDが入っており、一番上のわかりやすい目立つ紙に、あなたを恐喝します高杉《たかすぎ》教授のことを隠したければお金を払いなさい一代一人と、親切にも四十八ポイントのゴシック文字で明記してあった。  袋から出さないまま書類をかき回して文面に目を通すと、正真正銘の社会的な爆弾だとわかった。万が一にも人目に触れたら自分の人生が吹っ飛ぶ特大の爆弾だ。それも、自分が延々と作り上げたものだということが、じわじわとわかってきた。  腰を抜かしたときに太腿に触れた、床のリノリウムの冷たさを覚えている。本当に幸いだったのは朝一番の誰もいないときに来ていたことだった。  何かの間違いかもしれないというわずかな望みも、指定されたBBSに警告として一行だけ書きこまれている「K大准教授 江口静歌」の実名を目にした途端に粉砕され、それから静歌は金を払うようになった。一代はそのような獲物を他にいくつも抱えており、使い捨てのメールアドレスから毎月一回、「一代会のお知らせ」というふざけたタイトルのBCCメールを送ってきた。メールのテキスト量の九割は金を払わない人間がどうなるかという説明に割かれており、テキストの残り一割は、実際に表沙汰になった醜聞を知らせる無関係のニュースサイトヘのリンクと、今月の会費の入金要領が書かれていた。  毎月一度、静歌は煮えたぎるような屈辱の思いと共に、現金入り封筒を中国やインドネシアの某所へ国際郵便で送った。それは別に一代が国際的なシンジケートの一員だというようなことではなく、単に現地の人間とちょっとした話をつけて、足のつかない転送先を確保したというだけのことらしかった。それより不気味なのは要求される金額で、それぞれの獲物が継続して払えるぎりぎり上限の額に抑えられていたようだった。そんなのは、こちらの収入を端数の桁まで知悉《ちしつ》していなければ計算できないだろう。静歌はその金額を目にするたびに、服の中を冷たい手で撫で回されているような気分になった。  季節のひと巡り以上にもわたって、家をもう一軒購入したぐらいの経済的な出血が続いた。切り詰めればなんとかなったはずだが、希望のない暮らしがストレスになってむしろ出費はわずかに増えた。もちろんそのあいだも、恐喝される材料となった、不快な上司の存在にも苦しめられ続けた。体を壊して入院し、治療のために金を借りた。その月を狙ったかのように一代が会費を上積みした。運よく手の届くところに金があった。運が良かったのではなく、最悪だったと気づいたのは、横領した金を発送してひとまず落ち着いた瞬間だった。  だが何よりも静歌を圧迫していたのは、経済的な行き詰まりではなく、ひとりの男の胸先三寸で、大事な自分の人生があっさりと壊されてしまうかもしれないという恐怖だった。 「静歌さん」  呼ばれて静歌は軽く顔を上げる。それほど長いあいだ回想にふけっていたわけではないが、あのころの重い不安と恐怖が、両肩に戻ってきたような気がした。 「はい」  目を向けると、守吉がじっとこちらを見て言った。 「あなたのおっしゃる通りです。一代の悪は万死に値するものではなかったのかもしれん。けれども、わたくしたち十人にした仕打ちを考えれば、三度は殺すに足るほどの悪行であろう。あなたがそうおっしゃってくださって、わたくしたちは蒙《もう》を啓《ひら》かれたのです。ひとりではあの者に立ち向かえぬが、十人ならかなう。十人でもあの者を止められないかもしれないが、罪を分かち背負うことならかなう、と――」  老僧は視線をめぐらし、食堂に立つみんなに向かって、法事を司るときのような口調で呼びかけた。 「皆様がたはただいま、一代に味わわされた苦しみをしかと思い出されたでしょう。ここにいらっしゃる静歌さんがおられなければ、いまだに、いまだにあの苦しみの中にあったのです。そのことを今一度、ようく噛み締められるとよろしいでしょう」  ははあ――と、静歌は思い当たる。守吉がさっき食事を提案したのは、この時間を作るためだったか。  この場の十人は全員、計画に加わることに同意している。連判状を十枚作って全員が手にした。まるで江戸時代の一揆農民みたいな悲壮さだが、そこまで疑心暗鬼にさせたのは一代の狡猾《こうかつ》な手口だ。疑いをはねのけて十人が結束するには、こうするしかなかった。  だが、計画を聞いただけで離れていった一代会のメンバーは、もっと多かったのだ。逆に言えば、この十人はここまで来たからこそ信頼できる。  信頼できるはずだった。信頼できなければならないのだ。でなければ、この世界にもはや何ひとつ信頼できるものはないということになる。 「あのさァ、静歌姉さん」  皓一はフォークやスプーンを並べ終わって、テーブルにずっしりと両手をついていた。おずおずと顔を上げる。 「こうなっちまったら言うけどさ。オレ、姉さんをイマイチ信じ切れないんスよね」 「今さらそんなこと言うの?」 「だってこの段取りがさぁ……」  空中の砂を手の甲で払いのけていくような仕草をして、皓一は九人を示す。 「現実とは思えないっスよ。付き合いも何もなかった人間がある日いきなり集まって、ひとりの男を殺したなんて。正直、オレなんでここにいるの? って思う」 「あなたは当然行われるべき十回の儀式のうち、一回を担当しただけよ」 「いや、あるでしょ? みんなも! 心のどこかに、まただまされてるんじゃないかって気持ちが!」  皓一がすがりつくような視線を周りに向けた。うなずく顔が確かにいくつかあったように、静歌は思った。  ふと皓一が、顔を引きつらせた。 「静歌さん、ほんとにボトル下げた[#「ボトル下げた」に傍点]?」  それは、言葉の意味を深く考える前に口にしてしまった、という感じのひとことだった。言ってから皓一は目を見張った。 「自分だけ手を汚さないつもりで――」 「どうしてそんなふうに思うんだい?」  そう問いかけたのはエプロン姿のペンションの主人だ。厨房からゆっくりと出てきて、麦茶のサーバーに軽く肩を預ける。 「ことがうまく運びすぎたから? ここまでの段取りが腑に落ちないからかい? だとしたらそれはキミの気にしすぎた」 「気にしすぎにもなるでしょうが」  果物を搾ったあと手持ち無沙汰にしていた悦耶が、窓枠を見ながらぼそぼそと言う。 「ひと一人殺したあとなんだから、正気なんていくらでも揺らぎますし、不安な頭で考えりゃあなんだって疑わしく思えますさ。まあ皓一がほんとに殺してればの話だが」 「オレじゃないって! オレはきちんと殺したよ?」 「別に悦耶さんは……」  小さな声だったので、皓一の叫びに押し流されるところだった。「え?」と皓一は振り向いて、何か言っていた沙夕良に目をやる。 「なんか言った?」  沙夕良はうつむいて黙っている。翔子が寄り添って話を聞き、皓一を見返した。 「別に悦耶さんは皓一さんが非犯人だなんて言ってない、だって」 「ヒハンニン?」 「犯人でない人ってことでしょ。あたしたち十人の中にいる、ひとり」 「ああ、うん。オレがそれじゃないって?」 「悦耶さんは、みんなが不安になってるのは当たり前だって言っただけです」  沙夕良が平坦な口調言言って、確認を求めるように悦耶を見た。悦耶は他人事のような顔で目を逸らす。  そんな悦耶に向かって、風太郎がまた言った。 「不安になるなって言ったんじゃないよ。気にしすぎというのは、静歌さんがみんなを罠にはめるようなことはありえないという意味で言ったんだ。トネイロ会を作るのに静歌さんがどれだけ苦労したか、みんな聞いたはずでしょう。忘れた?」  彼が一同を見回すと、背後で誰かが「あの」と片手を挙げた。風太郎は振り返る。 「ほとりさん?」 「あ」静歌は声を上げる。「ほとりさんには話してなかったわ。話す前に承諾されちゃったから」 「そうなんですか? ほとりさんらしい……」 「皓一くんも疑ってるようだし、改めて詳しく話しておきましょうか。聞いて、ほとりさん」 「あ、はい。それはいいんですけど」  ほとりがそう言って、皿を持ち上げた。 「盛り付けしながらにしませんか。冷めちゃう」  それを聞くと、みんなが顔をほころばせた。 「そりゃそうです。冷めちまったら元も子もないね」  チン! とオーブントースターが返事をした。        4 「何はともあれデータを取り戻そう、最初はそう思ったのよ」  手作りした料理を食卓に並べながら、静歌が話した。 「おどしの材料さえ消えれば自由になれる。みんなだってそう思ったでしょう。行動に移そうとした人もいるんじゃないかしら」 「はい……警察に通報するぞって言った」「ぼくも」  翔子と雄大が言った。二人は顔を見合わせる。 「通報した?」「いや……」「あたしも。あいつビクともしないんだもん。十年たったら仕返しするって」 「恐喝罪は刑法二四九条にあたり、十年以下の懲役刑になる。実際にはもっと早く出てくるけれど、そのときあなたは何歳かな? ――っていう言い方したわね、あいつ」  みんなが息を詰めてうなずく。淡々と口真似してみせた静歌は、苦く笑った。 「だから私も警察はあきらめた。あいつなら絶対報復に来るものね。自力で何とかするしかなかった。それでデータを取り戻す方法を考えたんだけど……難題だったわ。あいつ、全然つかまらなくて」 「抜け目のない男でしたねえ。最初に喫茶店で会ったときは、目立たなーい車から目立たなーい服装で降りてきて、どこから見ても野暮天の正直者って風情《ふぜい》だったのに……」始が思い出話のようにしみじみと言う。「それが偽装だったんだからねえ」  一代は恐喝者の正体を現したとたんに、徹底して素性を隠すようになった。直接対面を避け、メールアドレスも電話番号も定期的に変え、身分証明を必要としない各種の転送サービスを駆使した。 「結局私も、あいつの居所を突き止められなかった。けっこう頑張ったんだけどねえ。イヤー、あの用心深さを事業に向けていれば、ひと財産をなしただろうに」  感心する始を、ほとりが不思議そうな顔で見た。 「始さん、あんな人を誉めちゃうんですか……」 「いや、才能はね? 人徳とは別ですよ。あいつには才能だけはあった。人徳はまるでなかった。そういうことです」 「いいけど、結局どうやって突き止めたんスか、やつの居所。おれそこはまだ聞いてねえ」  悦耶が苛立った様子で口を挟む。 「スーパーハッカーじゃあるまいし、ハッキングして暴いたなんて言いませんよね。そんなん素人にできるこっちゃねえ。電話の逆探知? 張り込み? まさか最初に会ったときから車のナンバーを記録してたとか?」 「ナンバーなんかで住所わかるかよ。探偵ものの見すぎじゃねえの」  皓一が馬鹿にしたように言うと、悦耶が薄笑いを浮かべで言い返した。 「バーカ、それができるんだっつの。免許もって陸運事務所行きや千円もかけずにわかんだよ。ストーカーが女の車見て自宅割り出すなんてザラだぜ?」 「あっそう……じゃ、姉さんもそれで?」  皓一が驚いたように見たが、静歌は首を振った。 「その方法、今はもうダメなの。何年か前までは実際にできたらしいけどね、悪用する人が多いせいで、法律が変わったんですって。――悦耶くんはひょっとして、以前に?」 「……だったらどうなんスか、いま関係ねーでしょ」  ケッとつぶやいて悦耶が顔を背けた。静歌は小さく笑って、明かした。 「一代会の新しい会員に見せかけて、会費と一緒にカードサイズのGPS発信器を郵送したのよ。誘拐や盗難の防止用に、警備会社がレンタルしてるやつ」 「ほほう」  始と守吉が感心した顔になった。沙夕良までもがつぶやいた。 「……それがあった」 「ちょっと待った、そんなんしたら一発バレでしょ? やつが開けたとたんにパーじゃないスか?」  悦耶がすかさず指摘したが、静歌は首を振ってさらりと返した。 「開けたとたんにバレるのは最初から織りこみ済み、発信器が返ってこないのも織りこみ済み。要は一代がそれを手にする瞬間まで追跡できればよかった」 「会費の封筒、中国で転送してたよね。そこで中身を調べられていたらどうしたの?」 「どうもできなかったわね。同様に、偽名の封筒を止めることになっていても、失敗したでしょう。だからこれは賭けだったのよ、一回限りの。でも、幸いにして成功したわ。送り主が私だということもバレなかった。警備会社は道具の性質上、発信器を見つけた誰かが問い合わせても契約主を明かさないからね」  小さく息をついて、静歌は続ける。 「そうやって居所を突き止めて、なんとかあいつの手元から、データを奪ったわ。――でも、残念ながら自由にはなれなかった。あいつがバックアップを持っていたから」  みんながため息を漏らした。風太郎が苦笑する。 「そりゃあ持っているだろうねえ、バックアップぐらい」 「ええ……そこまで頭が回らなかった、ううん、そうでないことを無意識に期待してしまっていたのね」 「そのころのことはみんなにも心当たりがあるんじゃないかな?」  見回した風太郎にみんながうなずいた。守吉とほとりが言った。 「二月ごろの、あれですね」 「なんか書類とCDのコピーが来ましたよねえ。あのときは、念を押してるんだなあって思いました。警告だったんだ」 「一代は誰に奪われたかわからなかったみたいね。しかも奪われたこと自体を私たちに悟られたくないと思った。だから無言でバックアップの存在を誇示したんだと思う。誰が奪ったのか知らないが、そんなことは無駄だぞって。――それで、私もずいぶんへこんだんだけど、奪ったデータの中に、貴重な情報が入っているのに気づいたの。それが一代会の名簿、恐喝対象者のリストだった。私たちよ」  コトリ、とジュースのピッチャーをテーブルにおいて、静歌は全員を見回した。  さんさんと朝日の降りそそぐ食堂に、オニオンスープとソーセージエッグの白い湯気が立ち昇り、濡れたサラダの緑が輝いていた。居並ぶ殺人者の仲間に、静歌は強いて笑顔を向けた。 「食べましょ?」  ガタガタと椅子を引いて腰を下ろす。始がカリカリに焼けたパンを全員に回していき、悦耶と翔子がそれにかじりついたところで、皓一がまた声を上げた。 「いや、まだ納得できねえ! 姉さん、いま一番大事なとこを流したでしょ? 『データを奪った』ってあっさり言ったけど、それが一番難しくない? 普通は無理だろ! 一代と話をつけたんでもない限り――」 「だから、普通じゃない手を使ったのよ」苦い顔で静歌は答えた。「留守を狙って押しこんだ」 「……マジかよ」 「マジです」  渋面で静歌はフォークを手にして、ぶつりとソーセージに突き刺す。 「一代は警察に届けない、それに賭けた。同時に――この場のあなたたちが通報しないことにも賭けてる。わかってるだろうけど」  静歌が見つめると、皓一が呑まれたように何度もうなずいた。 「あ、うんうん、わかった。わかりました、全部」 「もう疑わない?」 「はいっ」 「名簿を見たとき、私は気づいたの。警察には頼れないけど、一代と戦う仲間になれそうな人たちが、ここにいるって。それに応えてくれたのがあなたたちなのよ。もう二度と確かめるようなことは言わないでね?」  静歌が最初の一口をかじった。仲間の多くは、それを目にしてから手をつけた。        5  静歌の隣は翔子だ。がっつく、というほどではないが速いペースで料理を片付けていく。いや、やはりがっついている。卵二個分のソーセージエッグをあっという間にたいらげ、トースト二枚を小気味よくかじり、合間にちょくちょくサラダヘ手を伸ばしながら、さらにもう一枚のトーストヘ目をやっている。 「よく食べるのね」  静歌が感心して言うと、翔子は口をもぐもぐさせながらうなずいたが、不意に顔を赤らめた。 「すみません、無神経で」 「え?」 「人を……しちゃった後でこんなに入るなんて、おかしいですよね」 「いえ、そんなことはないわ。若いんだからいっぱい食べて」  場の雰囲気がおかしくなる前に、静歌はすばやくそう答えた。  それから、自分たちは今どんな気分でいるのが適当なのかを考えた。その疑問はすぐに、自分は今どんな気分なのか、というものに変わった。  嬉しさが六分に、不安が四分というところだろうか。嬉しさがまさっている。何しろ長いあいだの恐喝の苦しみから、ようやく解放されたのだ。一代の嵩《かさ》にかかったいやらしいメールを二度と読まなくていい。理不尽な搾取は消滅したのだ!  その確信を支えるのは、あのドアの上から垂れ下がっていたひもの手ごたえだ。静歌は昨夜、ひもにぺットボトルを結びつける前に、試しにそれを手で引いてみた。  ぎゅう、と確かに柔らかいものを締めつける感触がした。気のせいかうめき声さえ聞こえたと思う。人間はあのような行為をおぞましく思わなければいけないのだろう。けれどもあのとき静歌を襲ったのは、今こそこいつを殺してやるという容赦のない衝動だった。溜まりに溜まった鬱憤の爆発だ。  いや、正確には爆発ではなかった。沸騰ぐらいだ。その場で思いきりひもを引いて一代を扼殺したいという欲求を、静歌はどうにか抑えこんだのだ。その代わりに持参したボトルを一本のひもに結びつけて、足音の響く廊下を歩き去った。そのときの感情を簡潔に言うなら、制御された完全燃焼だった。沸き立つ怒りと冷たい自制をうまく噛み合わせて、乗りこなした。部屋に戻って床につくと、えもいわれぬ達成感が湧いて、ぐっすりと眠った。  それが一夜明けると、爽快な幸福感に変化した。  改めて記憶をたどってみると、慈悲やためらいをまるで催さなかったらしいので、静歌はあきれてしまった。無神経なのは翔子ではなくて自分だ。  それともみんながそうなのだろうか?  静歌は改めて食堂の長テーブルを見回して、驚いた。ほとんど全員が食事を平らげつつある。雄大や皓一が完食するのは当然としても(それにほとりもだ。どちらかといえば彼女は遠からずダイエットが必要になるだろう)、節制が必要なはずの守吉や、体の細い沙夕良までもが、皿を空にしていく。 「いやあ、みんなよく食べるなあ」  風太郎が苦笑して、お代わりを用意しに立つと、静歌はみんなに呼びかけた。 「ちょっと聞きたいんだけど、みんなはさっきのボトルの異常がわかる前、どんな気分だった? もう一代はいないんだ、よかった、と思った人」  そう言って、自分からサッと手を挙げた。  ほとんど同時に沙夕良が挙手した。次に守吉と風太郎がごく自然な感じで手を挙げ、皓一、雄大、ほとりが順番に追随した。  そのあとわずかに間を置いて、左右を見ながら邦子と悦耶が手を挙げ、一番最後に始が口元をナプキンで拭ってから、悠々と挙手した。 「嘘をついても始まりませんからなあ。私も半分ぐらいは、ほっとしました」 「残り半分は?」 「そりゃあ後悔です。えらいことをしちまったなあと」  始の向かいで、「ええっとぉ」とほとりがつぶやく。 「これ、なんですか? よく聞いてなくって」 「聞いてないのに手を挙げたの?」 「みんなと同じならいいかなーって」  ほとりは悪びれずに微笑む。らしいなあ、と皓一が笑っている。  これが他の場合なら静歌は彼女に皮肉のひとつも投げていただろうが、今に限れば、そうする気はなかった。「みんな手を下ろして」と言ってから、ふうと背もたれに身を預ける。  短いあいだ、考えた。この中の誰かひとりだけが、ボトルをぶら下げなかったはずだが、残る九人は殺人犯だ。その九人が揃って「殺してよかった」と思っている。あとひとりは当然、彼を殺すべきではなかったと考えているのだろう。そのひとりだけは、本意ではないが周りに合わせて手を挙げたのだ(それがほとりなら話は簡単なのだが、そうとも限るまい)。  殺意を持たなかった、ひとり。 「わかった」 「え、非犯人が?」 「ヒハンニン? 非・犯人か。なに、それ気に入ったの?」  静歌が聞くと、それを口にした翔子が、発案者の沙夕良に目をやってからうなずいた。 「短くていいかなと思って。いちいち『ボトルをぶら下げなかった人』って呼ぶのも、長いですし」 「非犯人あてか。これは私たち犯人の中での、非・殺人事件ってわけだ。いや、わかったのはそれじゃないわよ」静歌は額の上で片手を振る。「私たちが、その非犯人を責める必要はない、ということがわかったのよ」 「はあ?」 「つまりね、これが非殺人事件だということで、まず考えてほしいんだけど」昔、講座を持っていたときのように、翔子を最前列の学生に見立てて静歌は話す。「そもそもミステリー小説などで殺人事件が起きたとき、犯人を探さなければならない理由は、なに?」 「え? 小説?」 「もちろん、次の犠牲者が出ることを防ぎ、罪を償わせるためですね」  面食らう翔子の代わりに、守吉が明快に答えた。続いて沙夕良がささやくように言う。 「無実の人々の中に隠れた悪人をあぶり出すため」 「その通り」静歌はうなずき、けれども、と続ける。「今この非殺人事件においては、『殺してよかった』と考える私たち悪人の中に、一人だけ『殺すべきではなかった』と考える非犯人が隠れているわけよ。この人は次の犠牲者を出すかしら。償わなければならない罪を持つかしら?」 「ええっと……」  翔子は話が呑みこめずにうろたえている。せめてオウム返しにしてくれればいいのに。彼女を最前列に見立てたのはちょっと失敗だったかもしれない。  代わりに、理解が追いついたらしい皓一が、意外そうに言った。 「非犯人は犠牲者なんか出さないし、罪もない……っつーか善人なわけか。じゃあ別にほっといてもいいんじゃないスか?」 「要するにこの件では非犯人を発見しなくても害はないと、静歌さんは言いたいんだね」  風太郎が面白そうに言う。静歌はうなずいた。 「ええ。私たちは一度は結束し、この場に集まって、問題の一夜をともに過ごし、結果が出た。それからまた同じ席で同じ釜の飯を食べている。きっとここから出て行くときも、全員そろって出て行くでしょう。その事実の前には、実際にボトルを下げたか下げなかったかなんてことは、些細な違いに過ぎないのよ。気にするのはやめましょう」 「連判状もある」  雄大のひとことで、少しだけ沈黙が降りた。――それは、誰か一人が仲間に背いたところで、書面にした約束が残っているのだから逃れられない、という意味だった。  その沈黙が長引く前に、食パンを切りわけている風太郎が言った。 「同じ釜の飯で思い出したけど、翔子ちゃん」 「はい?」 「キミね、無神経じゃないかって、心配することはないですよ。昨日の夕食はどれぐらい食べた?」 「……あ、そうか」翔子は顔をほころばせる。「ほとんど食べた記憶ないですね」 「喉を通らなかったんだよね。みんなそうだよ。いっぱい作ったのに八割がた残されて、ボク泣きそうでした」  それを聞いてみんながにやにやと笑った。この場の全員が、昨夜は似たような悲壮な覚悟を固めて、このペンションを訪れたのだ。 「でもね、ボクも上の空で作ってたから、おあいこです」  風太郎がさらにひとこと付け加えたせいで、一同は噴き出した。悦耶がフンと鼻で笑う。 「そりゃ、これから人ひとり殺そうってのに、まともに作ったり食ったりできねえよな……」  出し抜けに、にぎやかな宴会もどきが始まった。どうせもうすぐ廃業だと言って、風太郎が在庫を開放したのだ。食料棚の奥からカニ缶や桃缶や高級チーズが発掘されて、惜しげもなくふるまわれた。どうせなら最初に出してくださいよと皓一と翔子がブーイングし、先を争って奪い合った。  さらに続いて沖縄泡盛の古酒《クース》が出現した。それを開けたらもう、もどき[#「もどき」に傍点]ではなくて本物の宴会になる。大人たちは陽光の中で額を寄せ集め、しばし討議した。 「朝っぱらから般若湯《はんにゃとう》ですか」 「すごく悪いことみたいな気がするんスけど」 「私このあと運転……はないのか、今日は。でもなあ」  守吉と皓一と静歌はためらったが、 「あ、おいしそう。わたしお酒大好きですよぉ」 「まあね、特別な日といったら、これほど特別な日もないだろうしね」 「率直に言って、ボクらには祝杯が必要だと思うんだ」  ほとり、始、風太郎が積極的に賛成して蓋を開けてしまった。ペンションの主人は瞬く間に人数分のショットグラスを琥珀色の液体で満たし、渋る皓一や静歌にまで押し付けた。 「飲んで忘れてしまいましょう。なんだったら夕方まで休んでいけばいいですよ。乾杯だけでも、ね」 「じゃあ、乾杯」  十五分後にはテーブルにふわふわした酒気が立ちこめていた。その中には白いセーラーの夏服姿の沙夕良も含む。悦耶と雄大が止めたが、人を殺したのに飲酒はだめなんですか? と当人に不思議そうに言われると反論の術がなく、量を半分にさせることしかできなかった。飲んでも顔が赤くなるだけで倒れなかったのは幸いだったと言える。 「それはそれとして」と静歌は言った。  それ、の前には別に何も話していなかったので、多少は酔ったに違いない。 「非犯人が誰なのかは、やっぱり気になるわ。みんなは気にならない? ならない人は挙手」 「どうでもいいっスよ。早く帰りてえ」  面倒くさそうに手を挙げたのは悦耶で、それを見て沙夕良が眉をひそめた。残りの者はちょっと考えて、挙手せずに済ませたように見えた。  その場を眺めた静歌は、悪戯《いたずら》心を起こしてつぶやいた。 「じゃあ、今から理詰めで非犯人を当てましょう」 「はあ? どうやって?」 「簡単よ。自分が何番目にボトルをぶら下げたか申告するの。自分が行ったときに空きボトルがあったかどうかも。それで判明するわ」  声を上げた皓一に、静歌はすかさず説明した。 「善人の非犯人をそんなふうに追いつめるなんて、おれらマジ悪人スね」 「だって水臭いじゃない? わたしたち、責めないって言ってるのに、名乗り出てくれないんだからあ」  皮肉をつぶやいた悦耶に向かって、ほとりがにこやかに応じた。  風太郎がうなずく。 「ボクも知りたいな。この中の誰が、この期に及んでシラを切り続けているのか。いま謎を解かなければ、多分この先永遠に解く機会はないだろうしな」  面白そうに言った彼の視線が、ぴたりと静歌を捉えた。 「意表を突いて、あなたかな?」 「疑いたかったらいくらでもどうぞ。すぐにはっきりするわ」  軽く眉をあげてそう言い返すと、静歌は微笑を浮かべて宣言した。 「じゃ、さっさと始めましょうか。一番最初にボトルを下げたのは風さんね。そういう約束だったし、私たちみんながここへ着いたときにそれを見た。で――二番目は?」  二人が手を挙げた。        6  全員が平等に責任を負うかたちで一代一人を殺す。  それが静歌の結成した「トネイロ会」の目的だった。「トネイロ会」の名は、似たようなトリックの登場する小説にちなんで、彼女がつけた。静歌は一代会のメンバーと慎重に接触して、このコンセプトを伝えた。段階的に信頼を築いて覚悟の甘い者や裏切りそうな者をふるい落とし、最後まで残った十人で会を組んだ。  十人残した理由をはっきり説明するのは難しい。作業にあたっての共犯者がほしかったのは確かだ。けれどもそれだけではなかった。静歌は自分がひとりでは一代を殺せないことを知っていた。彼の自宅に空き巣に入ったときですら、極度の緊張から膝が笑いっぱなしで、肌着は冷や汗でびっしょりになった。あのときひょいと本人に出くわしたら腰を抜かしてしまったかもしれない。彼の精神的な威圧は強く、誰もひとりでは一代を殺せないに違いなかった。  共犯者としてというよりも、同志として、静歌は九人の仲間を集めたのだ。  しかし実施面を考えると、この人数は逆に多すぎた。  ごく基本的な事実として、十人でひとりを殺すのは難しい。ナイフで刺すにしろ、首を絞めるにしろ、高所から突き落とすにしろ、十人は多すぎる。そこにはコメディじみた気配すら漂う。コメディというのは、実際には起こりえないからコメディになるのだ。静歌たちは実際にひとりの男を殺す。地に足の着いた計画でなければならなかった。  また人数が多いと、罪や責任に関する微妙な問題が起こる恐れがあった。十本のナイフを刺しても、十本全部が致命傷を与えるとは限らない。十回バットで叩いたら、おそらく何回目かの殴打で人間は死んでしまい、残りの者は死体を殴ることになる。「十人が平等に殺す」という言葉の意味は、ひとつしかない命を、なんらかの方法で十回にわけて壊すという意味であり、実はかなりの難問だとわかった。  一方で静歌はリアリストであり、殺人のような非情な行為を十人全員が冷静確実に遂行できるとは、毛ほども考えていなかった。というよりも土壇場で全員が尻込みすることすら想定していた。自分が躊躇《ちゅうちょ》しないという自信もなかった。  年齢も性別もばらばらの十人が、できるだけためらわずに実行できる方法でなければならない――付け加えるなら簡単であること。静歌は、痕跡の残らない毒薬を海外から調達したり、電気じかけの複雑な処刑機械を作ったりしようとは思わなかった。ややこしさは破綻を招くもとだ。  考えた末に思いついたのは、絞殺の一種だった。まず一代をどこかの屋内で眠らせる。その首に縄をかける。縄のはしをドアの上辺から外へ出し、十本のひもに分ける。十人がひとつずつおもりをぶら下げる。おもりの重さは、それひとつでは人間を窒息させるに至らないが、十個そろえば確実に殺すほどのもの。途中経過は確認しない。これによりメンバーは、「自分ひとりだけでは絶対に殺せなかった」という安心と、一代の死亡という明確な結果を、同時に得ることができる。それも、ひもにおもりをぶら下げるだけというありふれた行為を通じて。  失敗につながりそうな要素は、ひもやドアの強度が足りるかということぐらい。きわめて確実性の高い殺し方だ。  問題は、犯行の前提を整えるのが難しいということだった。「まず一代を眠らせる」、それができれば世話はない。  風太郎の申し出がなければ、静歌は早いうちに別の方法を考えていただろう。  彼の持つペンションに、一代が滞在しに来る習慣が以前からある、というのがこの手法を選んだ最終的な理由だった。そんな都合のいい習慣が一代にあるなんて、最初は静歌も信じられなかった。しかし理由を聞いて納得がいった。要するに現物納付なのだ。ペンションの経営は景気や季節に影響され、オフシーズンには現金収入が非常に限られる。長く恐喝されて出すものがなくなった風太郎は、ただで泊めるから会費をまけるという約束を取り付けたのだ。一代はこの冬にもやってきて、無料の美食と酒と露天風呂をたっぷり楽しんで帰っていったという。  それが死の罠になることを、決して一代に気取られてはならなかった。静歌たちは綿密な計画を立てた。  三ヵ月前から仕込みとしてペンションの経営が苦しいことを訴え、今月にはあえて、暑くなって客足が戻ったと伝えた。一代が、むしろ繁忙期にこそ来たがるだろうと踏んでのことだった。  とどめは鮎だった。それは夏の初めに漁が解禁となる。 「鮎を送る?」  一代は電話の向こうで、子供が捕った虫を見せられたように、苦笑していたらしい。 「そんなもので会費をごまかす気ですか? 送ってもらわなくてもけっこうですよ。いやいや、鮎のような川魚は、地元で食べてこそ美味《うま》い。ひとつ、そちらへうかがいましょうか」  日程はそれで決まった。あらゆる都合に優先して集まるよう、トネイロ会の十人が招集された。会から睡眠導入剤が風太郎に送られた。ほとりに不眠症だった時期があり、そのとき処方された薬の残りだった。  当日、訪れた一代に風太郎が薬を盛った。眠りこんだ男をシーツで簀《す》巻きにして、客室へ運び、ドア前の床に横たえて首にゆるく縄をかけた。静歌が考えたとおりに、それを外へ垂らして、ドアを閉じ、一本目のぺットボトルをぶら下げた。  それを待って他の九人がペンションに到着し、風太郎が出したありあわせの夕食をほとんど残してから、二階の客室に入った。  そして一晩が過ぎた。        7  静歌はほとりと見つめ合う。  まさかこの女が、こんな形で自分にぶつかるなんて、と思いながら。  手を挙げた静歌とほとりは、しばらく無言だった。他の者は目を丸くして二人を見比べ、声を上げた。 「なに、これ?」 「ほとりちゃん、意味わかってる?」  悦耶に言われたほとりが、少女のように口を尖らせて言い返す。 「ちゃーんとわかってるわよ、自分が行ったときのボトルの数を言えばいいんでしょお。一本でしたー」 「私も」  短く言って、静歌はほとりがなぜ嘘をつくのか考えようとした。だがその思考を、ほろ酔いの皓一の大声がかき乱した。 「いや姉さん、静歌姉さん! 嘘はやめようよ、二番はほとりさんだって!」 「なんで?」 「なんでもくそも、オレ見たもん。ほとりさんがボトル下げて帰ってきたのを、廊下の窓明かりで見たの。そのすぐあとにオレも出ていって、三本目を下げたんスよ。だからほとりさんの二番は間違いない!」 「ボトルを下げにいくところは、見ない約束だったわよね」  静歌は冷たく言った。トネイロ会が作った、いくつかのルールのうちのひとつだった。  人は殺人をためらう。決意を固めて現場に来ていてさえ、ふんぎりをつけるのにきっかけがいるだろうことを、静歌は予測していた。「あの人がやった後ならやる」「先に五人下げてくれたらやる」、誰もがそう考えるだろう。だがいちいち希望を聞いていたら収拾がつかない。そもそも順番がほぼアトランダムであるということ自体も、この手法の平等性を担保する要素のひとつなのだ。  だから九人が部屋に入ったのち、明かりをすべて消した。誰がボトルを下げにいくのか、わからないようにしたのだ。  それでも床がきしむ音で、誰かが廊下を歩いているのはわかる。鉢合わせの心配はないはずだった。 「皓一くん、ほとりさんの顔を見たというなら、それは違約よ。あなた、信用できないわ」  静歌の言葉に皓一が言い返そうとしたが、それをさらに別の声が押し戻した。 「三番目は、わたくしです。水の入った、二本のボトルを押しのけて、この手でボトルを下げました」  守吉が、両手を差し出してきっぱりと言い、そのまま合掌して祈った。 「ちょっ……」皓一が声を詰まらせてから、怒鳴った。「ちょおっと、そりゃタチが悪くないスか? 二人で口裏合わせて、オレたちを陥れようって? なんで? なんでそんなことするの?」 「うぜえ、ちょっと黙れ皓一」悦耶が皓一の袖を引いた。「喚くとますます嘘っぽくなるぞ」 「嘘じゃねえって、この二人が嘘ついてるんだって! ねえほとりさん、オレら本当っスよね? 嘘なんかついてませんよね?」 「そうだけど皓一くん、声おっきい……」  うなずきつつもほとりが耳を押さえる。風太郎が、自分だけは一番であることが確定しているためか、気楽な見物人のような顔で静歌に水を向けた。 「なんだと思う? この矛盾」 「さあ、わからない。二人とも、時刻は? 私は夜九時の少し前だった」 「あれっ? 静歌さん、九時半ごろにも出て行きましたよね?」  同室の翔子が目を細めて指摘したが、静歌は穏やかに首を振った。 「あれはお手洗い。私だけじゃなくみんなも何度か動いていたわね。つまり音だけから当てるのは無理だわ、これ」 「わたくしは午後九時五分に行いました。時間的にも、静歌さんの後ということで、符合しますね」  再び、守吉が言った。  みんなの目が皓一とほとりに集まる。皓一は不満そうに声を低めた。 「時間は……わかんねえけどさ。でも嘘はついてないって。気合入れるのに必死で、時計は見てなかっただけで」 「布団かぶってヨシッヨシッ叫んでうるさかったな、おまえ」  悦耶が意地悪く言うと皓一は歯を剥きだしたが、はっとして言った。 「それ、いつ? 覚えてない?」 「おれはおれで悩むのに忙しかったんだよ、おまえの出てった時間なんか知るか」 「使えねえな、もう!」 「ほんとマジ知らんわ、おまえ」 「ちょっと静かにして」片手を挙げて、静歌はほとりに尋ねた。「あなたは? 時間」 「それが、携帯がバッグの中に埋まっちゃって、真っ暗で見えなくてぇ……バックライトがあれば見えるんですけど、そのバックライトが携帯でしょ? だから、もう眠くなる前に行っちゃえっと思って」  ほとりはあっけらかんと言った。静歌はこめかみを指で掻いた。 「要するにあなたも時刻不明か……いいわ、この矛盾はひとまず措きましょう。とりあえず全員の申告を聞いてしまわない?」  皓一が不満そうに、後の者もそろって、うなずいた。 「じゃあ、四番の人。――四番、いないの? ボトル三本のところへ来た人よ?」  おかしなことに、誰も答えない。「五番は? 六番は?」と静歌が聞いても同様だった。  そしてその次が、さらに奇妙なことになった。 「七番の人」  悦耶と雄大が手を挙げた。ともに無言で相手を見る。みんながため息を漏らした。 「これはおかしいねえ」「変ですねえ」 「静歌さん、先を」  悦耶が促したので、静歌は残りの者に目をやりつつ、尋ねた。 「八番」――挙手はなし。 「九番は?」――翔子ひとりが手を挙げた。 「十番」始がにっこりと微笑みながら、右手を伸ばした。 「なんだよ、これ!」  例によって皓一が叫ぶ。風太郎が冷静に尋ねる。 「悦耶クン、雄大クン、出かけたときの時刻は? 空のボトルはあった?」 「二時に最後に時計を見て、何十分かたってから行ったよ。ボトルの数は見たけど、中身まで確かめてねえ」と悦耶。 「二時半……ぐらいだった。ボトルの数、中身は覚えてない」と雄大。 「数、覚えてないの?」  そう言ったのは翔子だったが、全員が似たような顔で彼を見た。うん、覚えてない、と泰然と答えてから、雄大が続けた。 「たくさんあったから。でも順番は間違いない。ひもが四本だったから、一本にかけた」 「ああ、ボトルの数じゃなくて、残りのひもを数えたのね」静歌が言い、最後の二人に目を向けた。「翔子ちゃん?」 「あたしはちゃんとひとつずつ数えました。いっぱいあって下のほう見えなかったから。ちゃんと八本ありました。時間は……」頭をかいて、翔子は開き直ったように笑った。「はは、三時すぎてからです。やるのが怖かったの。でも、最後になったかもしれないって思ったら、このままやらないのも怖くなって」 「で、最後になったのは始さんね」  静歌が視線を転じると、始はうんうんと細かくうなずいた。 「実はねえ、私はもともと、最後にしようって決めてたの。みんながどれぐらいやってくれたか見てからにしようってね。それで明るくなってから行ったら、ボトルが鈴なりでしょう。うわあこれは出遅れたと、あわててね、下げたんです」 「空のボトルは?」 「さあー、どうだったかねえ……」  始が首をひねっていると、突然、翔子が片手を挙げた。 「あ、はいっ! ありました、空のボトル! あたしが触ったときには!」 「ほんとに?」 「はい、間違いないです! すぐわかった!」  翔子の言葉はあまりにも勢いがよく、その場にしばらく沈黙が生まれてしまった。  風太郎が、冷蔵庫にぶら下げてあった、伝言用の小さなホワイトボードと水性ペンをテーブルに持ってきた。 「ともかく――書いてみようか。言いたいこともあるし」  一番目  風太郎  二番目  静歌 or ほとり  三番目  守吉 or 皓一  七番目  悦耶 or 雄大  九番目  翔子  一〇番目 始  それを見た静歌がつぶやいた。 「この書き方はあまりよくないわね」 「そう? まあとりあえずはこれで話を進めましょう。で――」  風太郎は一番小さな人影に目をやる。 「沙夕良ちゃんは、いつやったんですか? それともやってない?」  あえて今まで触れないでいた、という風情で優しく言った。  沙夕良はおずおずとボードに手を伸ばして、小さな貝殻のようにきれいな爪のついた指で、真ん中あたりを指差した。 「このころ」 「守吉さんたちのあと?」 「大体……」 「あっ、じゃあオレ見なかった? オレ」「ボトルの数は?」「ひょっとして、空で持っていったの?」  みんなが口々に聞くと、沙夕良は「わかりません……」と細い首を縮めてしまった。  なおも大声で問い詰めようとする皓一を静歌が押しとどめて、三番目と七番目の間に沙夕良の名を書く。風太郎が「さて」とつぶやいて、一座を見渡した。 「一体なんなんでしょうね、これは」 「何って、なあ……」 「空のボトルを下げた非犯人を探すはずでした。なのに嘘つきが三人もいることになった。ボクはちょっと、残念ですよ。信頼できる十人だと思ってたのに」 「オレは、ついてません! ほとりさんも!」  皓一がしつこくくり返して、その場を見回し、初老の元経営者に目を留めた。 「始さんはどう思うんスか? オレと姉さんとどっちが怪しいと?」 「うーん、ちょっとわかんないね。静歌さんは何しろ天才で深い考えがありそうだけれど、きみはきみでカッとなってとか、ついうっかりがありそうだしねえ」 「ひっでぇなこの人、印象だけで言ってるよ。でも悪意のないことはわかってもらえるでしょ? オレもほとりさんも」 「うーん、じゃあ逆に聞きますよ」始は顎を撫でまわして皓一に言う。「雄大くんと悦耶くん、どちらをきみは信じる?」 「雄大さん」 「てめぇだって印象だけで言ってるだろうが!」  悦耶がすかさず突っこんだが、口調にいくぶん疲れがにじんでいた。  そのとき、守吉がひょいと口を挟んだ。 「待ってください。悦耶さんは嘘をついていませんよ」 「なんスか? 証拠でもあるんスか」  振り向く皓一に、守吉は訥々《とつとつ》と言った。 「実は見たのです。――わたくしは昨夜早くにボトルを下げてから休みましたけれども、夜中に催して起き出しました。その折、ボトルが気になって見にいったのです。あの男の部屋の前には、確かに六本のボトルがかかっていました。そのとき二階に足音がしたので、わたくしは規則の通りに鉢合わせを避けようと、談話室に入りました」  談話室は階段の下にあるので、二階と一階を行き来する人間からは死角になる。みんなにそれを思い起こさせて、守吉は続けた。 「降りてきた方は、あの男の部屋にボトルを下げて、また階段を昇っていきました。そのときに窓明かりで見るともなく見えたのが、長い茶色の髪でした」  みんなの視線が、ひとりだけ髪を脱色している元パチンコ店長に集まった。悦耶は「だから言ってるだろ」とつぶやいて、大仰に胸を張った。 「時刻は?」と静歌が訊いた。 「二時二十分」と守吉がきっぱり言った。  時間も行動も本人の言と矛盾しない。証言と呼ぶに足る話だった。自然に、一同の視線が別の男へ集まる。寡黙な工事人の顔色がゆっくりと変わっていった。  そのとき、澄んだ声があがった。 「あのっ」  黒髪の内気な少女が、懸命に口を開けて発言した。 「嘘つきはもうひとりいると思います。――翔子さん」 「あたし!?」  アスリートの娘が驚いて振り向く。        8 「なんであたしが? 嘘なんてついてないよ?」  翔子は身を乗り出してそう言った。沙夕良はおびえたように息を詰まらせたが、雄大がごつい手を挙げて遮った。 「まあ聞こうよ、おどかさないで。沙夕良ちゃん?」 「はい……」沙夕良は息継ぎをしてまた言う。「ここまで、誰ひとり、空のボトルがあったって言った人はいません。一番最後の、明るくなって、目で見ることができたはずの始さんですら、断言はしてないです。それが当然なんです。空のボトルがあったらわかるだろうなんていうのは、あと知恵? ってやつで、何も知らないまま触ったら、たぶん絶対気づかないんです。それが触っていても見逃したと思います」 「え、じゃあ何? 空のボトルはなかったでしょうっていうこと? あたしが触ったときに?」  翔子が言い返したが、沙夕良は首を横に振った。 「そうじゃないです。確かめてないのに断言したでしょうってことです」 「……え?」 「翔子さんは一本ずつ数えたって言いました。言いましたよね? 下のほうが見えなかったからって」彼女に見渡されてみんながうなずいた。「八本あったって言いました、翔子さん。空きボトルを見つけていたなら、そこで思い出さないのはおかしいです。なのに翔子さん、後でとってつけたみたいに言い出して。それは」  目をテーブルの隅へ向けた。 「始さんをかばおうとしたんじゃないですか。九本目までに空のボトルがなかったのなら、非犯人は始さんに決まってしまうから。みんなが空のボトルを見てないのは、そういうことだと思ったから」  そのあたりで勢いが尽きて沙夕良は口を閉じた。みんなは、内気に見えた彼女の意外にはきはきした指摘に、ちょっと驚いていた。 「なるほど」  静歌は思わず手のひらでタンと机を叩いて、あとを引き取った。 「もし始さんが非犯人なら、みんなが空のボトルに気づかなかったのも当然ということになるわね。それは最後にぶら下げられたわけだから。始さん本人の証言しか否定材料はない。――というか本人も否定してないじゃない。始さん、とぼけましたね?」  そう言ってから、周りの人間がついてくるよりも早く、静歌は自分がいま言ったことの矛盾にも気づいてしまった。 「いえ、違うか! 始さんが非犯人なら、空のボトルがあったと証言していなければならないんだわ。それをごまかしたということは……」 「ああ、あっさり気づかれちゃいましたなあ」始はかすかに苦笑が勝った笑みを浮かべて、沙夕良に声をかけた。 「嘘つきは、もうひとりじゃないんだねえ。二人なんだ、私もそうだったから」 「あっ……はい」  沙夕良が顔を赤くしてうつむいた。 「えっ、何、ごめん」  皓一が気まずそうな顔で手刀を立てるような仕草をした。静歌は「わからない?」と微笑んで、見つめ合っている翔子と始をチラリと見た。 「要するにどっちもどっちだったってことよ。翔子ちゃんは始さんが非犯人だと思ったから、かばった。同様に、始さんは翔子ちゃんが非犯人だといけないから、かばったのよ」 「……ああ、そう。結局二人とも非犯人じゃないってことスか」 「多分ね」  翔子は席を立つと始のそばへ行ってぼそぼそ謝り出した。 「ごめん始さん、疑っちゃって、っていうか決めつけて。始さんはいい人だから、殺さなかったんだなって思っちゃったの……」「いや私もね、翔子ちゃんみたいなまっすぐな子が人を殺したなんて、思いたくなかったからねえ」 「二人ともいい人すぎ……」  沙夕良の小さなつぶやきが、静歌の耳に入った。それを気に留めつつ、からかい半分のひとことを口にする。 「風さんじゃなくて、最後の二人じゃないとすると、残りは七人。まだ自白しない? たった一人の善人さん」 「えっ、七人? どうなったんですか?」  ぽかんとしていたほとりが、不思議そうに左右を見た。これが演技だとしたらたいしたものだ、と静歌は思う。  そのとき、雄大がいやに苦しそうな顔で切り出した。 「あのう、改めて思い出してほしいんですが」 「なに?」「お、なんスか」 「ぼくたちは一蓮托生で、分裂するわけにはいかない。殺意が多くても少なくても非難しあわない……そう、決めたよね」 「ええ」「そうね、仲間割れはしたくないわぁ」  静歌やほとりがうなずくと、雄大はしばらく、もじもじと指を組み合わせていたが、やがて顔を上げた。 「この辺でやめませんか、非犯人探しは」 「どうしてだい?」  風太郎が聞き返した直後に、静歌はもう思い出していた。「そうね」とその是非を考えようとする。  しかし間の悪いことに、皓一も同じことに気づいたようだった。 「そういや雄大さん、さっき何か……」眉根を寄せて首をひねり、雄大の顔と卓上のボードを見比べた末、彼は叫んだ。「思い出した! 悦耶が七番目に確定したんだ、守吉さんの証言で! だから、かぶってるあんたが嘘つきだ。あんたなんで嘘ついてるんスか? 空きボトルもあんたなの?」 「雄大クンが非犯人かぁ」風太郎が腕組みして息をつく。「まあ順当なところかな、この中じゃ人がよさそうな部類だし。できれば詳しい理由を聞きたいですが」 「いやいや、そうじゃなくて! いや、もうそうでもいいんだけど……ううん、困ったな」  雄大はあわてて両手を振って否定した。だがみんなの視線に耐えられなくなったようにうつむき、じきに訴えるように尋ねた。 「もう一度だけ。殺意の量は気にしない。いいですね? 悦耶さん?」 「えっ、おれ?」あわてたように椅子をガタンと鳴らして、悦耶がうなずいた。「おれは気にしないけど。いいの?」 「そうですか、それを忘れないでくださいよ。――聞いたね、沙夕良ちゃん。悪いけど言っちゃうよ」  びくん、と沙夕良が彼を凝視する。物音に驚いた猫のようだ。雄大が風太郎を見た。 「ぼくたちはみんな、人を殺した悪人です。だから沙夕良ちゃんを責める資格はないです。たとえこの子が誰よりも強い殺意を抱いていたとしても」  沙夕良の顔がみるみる真っ赤になった。        9  実は今までに奇妙な指摘など、一度も出ていなかったのだ、と静歌は気づいた。――雄大がいま言ったことの突飛さに比べれば、みんな立てた卵が倒れるのと同じぐらい当たり前のことだった。 「雄大クン?」と風太郎が訊く。うなずいて説明を始める彼の顔には、あきらめとかすかな苦味がある。 「ぼくは気づいたんです。あのドアのボトルの中に三本だけ、異様なほど膨らんだボトルがあって、その三本が同じ結び方をされていました。誰かひとりが三本ぶら下げたと考えるのが一番自然でしょう? そういうことができるのは、三本一度に持っていっても順番が他の人とかぶらない位置にある人だ。つまり沙夕良ちゃんです」  雄大はペンを取って、ホワイトボードの表を書き直した。  風太郎            1  静歌             2  守吉             3 (沙夕良が来て二本持ち去る)  1  ほとり            2  皓一             3 (沙夕良が戻って三本追加)   6 「数字はその人が去ったときのボトルの個数です。何番目かを書くよりこのほうがいいよね、静歌さん?」  雄大はけがをしており、片目しか見せていないが、その瞳の輝きはたいしたものだった。静歌はうなずいた。 「ええ、これがいい。そしてこの説明なら、どちらも嘘つきにせずに矛盾が説明できるわね」 「静歌・守吉ペアと、ほとり・皓一ペアの順番は、あるいは逆かもしれないけど、重要じゃない。肝心なのは、沙夕良ちゃんが一度きたのに、プラス二本のボトルを持ち帰って、また持ってきたってことです」 「沙夕良ちゃん、本当にそうなの?」  ほとりが尋ねると、沙夕良は泣きそうな顔でこっくりとうなずいた。  静歌は訊いた。 「なぜそんなことをしたの?」  沙夕良は顔を上げようとするが、言葉が出ない。雄大がそっと言い添えた。 「言っていいよ。ぼくも同じ気持ちだから」  沙夕良が戸惑ったように顔を上げた。ちらりと別の誰かのほうを見てから、ぽつりぽつりと言った。 「最初は、普通に一本ぶら下げるつもりで行ったんです。そのときは三本下がってました。……でも、その三本はあんまり水が入ってなかったんです。上のほう、ずいぶん隙間が残ってて。それを見たら、不安になって、腹が立って……みんながこんなに少ない量だったら、足りないかもしれないって思って。それで私、二本ひもをほどいて、水を詰めなおしにいったんです。口元までぱんぱんになるように」 「それで自分のと合わせて三本、満タンにしてきたのね。ドアに一個だけ残したのはどうして?」  静歌が何気なくそう言うと、沙夕良は信じられないというように目を見張った。 「だって、ドアの向こう、あいつなんですよ!? ボトル全部取って、生き返っちゃったらどうするんですか!?」  その叫びには、はっとするような真剣みがこもっており、みんなは自分たちがここへ来た元々の理由を、嫌でも思い出させられた。 「全部下げても二十キロですよ。二十キロなんて……私ひとりぶんよりも軽い。ほんとはもっともっと、何百キロもかけてもいいんです、あんなやつ」  拳を震わせて沙夕良は吐き捨てる。人を縊死させるのに全身を持ち上げる必要はなく、簀巻きにして両手両足を使えなくした状態なら、二十キログラム重の力で十分だ。そのように相談して決めたのだが、だからといって沙夕良に間違っていると告げる者は、ここにはいなかった。 「そういうことなら、隠さなくてもよかったんだよ、沙夕良ちゃん」  悦耶が気抜けした様子でつぶやくと、なぜか沙夕良は悲しそうな目で見つめ返した。雄大が再びホワイトボードを手元に引き寄せながら、いやに事務的な口調で言った。 「誰かが持ち帰ったという仮定を置くと、前半だけじゃなくて後半のボトル数も説明できる。こんなふうに」  風太郎            1  静歌             2  守吉             3 (沙夕良が来て二本持ち去る)  1  ほとり            2  皓一             3 (沙夕良が戻って三本追加)   6  悦耶             6  雄大             7  悦耶・二度目         8  翔子             9  始              10 「守吉さんが六本のボトルを確認したあとで階段下から目撃したのは、一度目に来た悦耶くんだ。そのときあなたはボトルを付けなかった[#「付けなかった」に傍点]。ぼくはその次に行ったから、自分が七番目だと思いこんでしまった。このときまでにあなたがどういうつもりだったのかは知らない。でもそのあと二度目に来たときは、こう考えていたと思う。ボトルを下げなければ翌朝すぐ一本足りないことがバレる。ボトルがあればごまかせるかもしれないし、あっさりスルーされるかもしれない。やっぱり下げておいたほうがいい、たとえ形だけでも[#「たとえ形だけでも」に傍点]」  途中から雄大はまっすぐに相手を見て話した。  みんなが、ゆっくりとその意味に気づいて目を見張った。  しかし雄大はそこで問いかけを終えず、なおも続けた。 「でも、いくつか言っておきたいことがあるんだ。まず、ぼくが沙夕良ちゃんの嘘に気づいたのは、沙夕良ちゃんが翔子さんを名指ししたときだ。あのとき沙夕良ちゃんは何かからみんなの注意を逸らそうとした。それは、ぼくがボトルを下げた順番が追及されることだった。――ぼくが嘘をついていないと確定すれば、自動的にあなたが嘘つきだということになるからね。そして、沙夕良ちゃんが最初のうち黙っていたこと自体も、単にシャイだからじゃないと思う。沙夕良ちゃんはあの時点で自分より前には空のボトルがなかったことを知っていて、しかもボトルの持ち帰りという行動の着想を持っていた。だから、発言の矛盾するぼくとあなたのどちらかがボトルを持ち帰ったんだろうと見当がついた。そのどちらかまではわからなくても、半々であなたが非犯人かもしれなかった。そしてぼくたちはこれまで、非犯人のことを、[#傍点]この中でただひとり人殺しをためらった善人だ[#傍点終わり]という前提で話していたよね」  その場の雰囲気の変化に、静歌は息詰まる思いだった。いや、風太郎も、守吉も、ほとりや皓一までもが、引きこまれていた。おとなしくて口数が少ないと思われていた雄大が、意外にも鋭い観察眼と筋道だった考え方を披露し、逆についさっき激情をあらわにした沙夕良が、うっかりして風船を空高く飛ばしてしまった子供のように悲しげな顔になっていくのを見て、一体どうなるのかと固唾《かたず》を呑んだ。  何よりも悦耶の顔に浮かんでいく剣呑《けんのん》な笑みに、みんなは目を奪われていた。  雄大が挑戦的な苦笑を彼に向けた。 「その前提が当たっていたのかどうか、そろそろ聞きたい。つまりあなたはぼくたちと違って善人[#「ぼくたちと違って善人」に傍点]なのか、それとも同じ悪人[#「同じ悪人」に傍点]なのか。悦耶くん?」 「まさかあんたに言われるとはね!」  バン、と両手を机に叩きつけて、悦耶はささくれた感じの笑みを浮かべた。 「絶対、静歌ねーさんに言われると思ったんだがな。でなけりゃ風さんが。わかんねーもんだ。雄大さん、あんたそこまで切れるのに、なんで一代の野郎に食いつかれてたのかね。こんな会にノコノコ首突っこんでこなくても、助かる方法を思いついたんじゃねえの?」  雄大は答えない。唇をまげて苦い笑みを浮かべているだけだ。悦耶の指摘は、当人からも仲間からもやり返しにくいもので、歳のいった始が口を開くまでは誰も答えられなかった。 「悪人じゃあないんだよね」小さく肩を丸めて、自分の工場をなくした男はつぶやく。「悪人になれなかったんだね、みんな。そもそもの最初、一代一人につけこまれたのは、あいつの手を借りて憎い敵をやりこめようとしたからだった。本当の悪人なら、そんなことはしないねえ。自分の力で、確実に相手を蹴落としちゃう。私たちはひとりではそんなこともできなかったんだ。私も、静歌さんも、雄大くんもね。悦耶くんはきっと、それが気に入らなかったのかな」  始と目が合うと、悦耶は座っていた椅子を後ろに傾けて顎を突き出し、「たりめーだろ」とつまらなそうにうそぶいた。 「だってこの会、ぐだぐだだろ。人ひとり殺そうっていうのに、相手の顔を見る度胸もない。一発で殺してやろうって気合もない。十人全員で一晩かけてちまちまペットボトルをぶら下げるって……ありえんし。それはマジねーわ。言ったら付き合ってらんねー。あんたらだけでやってくださいって感じ。おれは生温かい目で見てるんで」 「それが空のボトルを下げた理由?」  静歌が言うと、悦耶はしらけた目を向けて、また天井に視線を戻した。 「意気地なしの言いわけにしか聞こえない」 「おま、ざけんなよ、ああ?」  椅子を後ろに蹴倒して、悦耶は凄まじい目つきでにらんだ。だが、雄大と風太郎と皓一がすかさず立ち上がって、彼を見つめた。静歌も軽く眉をひそめただけで、悦耶のぎらぎらした視線を受け止めた。 「非犯人は、善人さんじゃあなかったみたいね。私たちとは違う悪人[#「私たちとは違う悪人」に傍点]だったか。残念だわ」 「てめえどうすんだよ!? おれにどうしろっつうの? あ!?」  今や虚勢を張ることもやめて、手負いの獣のように喚きたてる男を、静歌はじっと見返して、首を横に振った。沙夕良が今にも声を上げて泣き出しそうで、見るに忍びなかった。 「別にどうもしないわよ。一代を殺すという仕事は終わってしまったし、言った通り、この十人は一蓮托生。ここで起こったことは親兄弟にも話さないまま、お墓の中まで持っていく。この非犯人探しは、ただの余興。あなたも私たちも、ここを出ていつも通りの顔をしてうちへ帰るの」 「おれはやってねーからな、おれだけは水下げてねえぞ! いいな、てめえら。忘れんなよ、人殺しどもが!」 「出ましょう」  静歌は立ち上がった。他のみんなも、悦耶を無視して片づけを始める。  中途半端に広げられた宴会の酒肴が、今ではひどく白々しかった。悦耶は椅子を蹴り飛ばして出て行った。皿を積んでいた皓一が二度ほど大きくため息をつくと、「ああ、もう!」と叫んだ。 「あいつ、あそこまで悪いやつだとは思わなかったんだけどな! もう、なんか……くそっ! なんでこうなったんスかねえ、姉さん!?」 「世界はこうなるのが普通なのよ。そんなにがっかりしないで」  静歌は生ゴミの大袋を開いて、みんなのあいだを回った。        10  かなりの仏頂面でだが、ともかくも悦耶はバンの助手席に乗りこんだ。その隣で風太郎がハンドルを握り、あとの八人は多少無理やり後席に収まった。  九人乗りのバンは、夏草を踏みながらペンションを離れ、木々の間を縫うぬかるみ道をしばらく走ってから、県道へ出て駅を目指した。  涙でぐしゃぐしゃになった顔をハンカチで隠しっぱなしにしている沙夕良は、一番後ろの窓際だ。その隣に、ほとりと皓一と守吉がついた。始と翔子がその前で、静歌は雄大とともに二列目に並んだ。 「雄大くん、家ないんだったよね」 「はあ、いまちょっとドヤの世話になってて。でも雇ってくれる人のあてはあるんです。きちんと借金返すならって条件で」 「返すわよね、あいつはいなくなったんだから」 「はい、もちろん」 「あのさ、私でよければだけど、部屋借りるときは保証人やってもいいわよ。あとどうしてもってときは、来てくれればご飯ぐらい出す」  いま実家だから、と静歌は書付をして渡した。雄大は負傷した痛々しい顔に、精一杯の笑みを浮かべた。 「ありがとうございます……きっと何かで返します」 「元気出して」  後ろの様子をうかがうと、他のみんなの間にも、似たようなやり取りが生まれているようだった。守吉が話すことに沙夕良はうなずいており、始と翔子はぽつりぽつりと励ましあっては、小さく笑っていた。あいつのせいでさんざん人生を損なわれてきたけれど、この分なら、なんとか立ち直ることができるだろう。  そう思うにつけ、ひとりだけ孤立してしまった男のことが、静歌は残念でならなかった。  自分たちは人殺しの集まりだ。そこに和やかな交流を求めるのが間違っているのかもしれない。だが、元はといえば似たような苦境にあったからこそ、一代に目をつけられたのだ。その原点に立ち返れば、互いを助け合う仲間だと考えることもできたはずだ。  それとも、今となっては遅いのか――。  窓の外を流れる大型店の連なりを眺めていた静歌は、ふと運転席に目をやった。 「風さん、そういえば一代のデータ、ひとりで処分できるの? 大丈夫?」 「ああ、大丈夫です。もしアレなら、また会に助けを要請しますから」 「ん」  仲間は大事だ。一代が抱えこんでいる恐喝データのバックアップを取り戻す方法を、静歌は最後まで思いつけなかった。だがそれも、風太郎があいつを眠らせる前に聞き出したという。まったく、彼がいなければこの計画はどうなったかわからない。  物腰柔らかだが、頼りになるペンションの主人、いや、もうじき元・主人になるはずの男。もし一代が消えたことが警察に知られれば、もっとも不利な立場に置かれるため、この件の後片付けを済ませたら、すぐにアルゼンチンヘ旅立つつもりだという。  彼に何かを伝えたいなら、たぶん、今しかない。 「風さん……」  肩越しに声をかけようとして、静歌は言葉を切った。  いつの間にか芽生えた気持ちが、かえって言葉を押しとどめていた。 「ん?」とバックミラーの中で彼が目を向ける。「……いえ」と首を振って、静歌は窓の外へ目を戻した。  まだ早すぎる。こんな、みんなもいるところでは。  バンはバイパスを走り、やがて信号を曲がった。ロータリーを備えた小ぎれいなJR駅が見えた。降車場に車を止めて、風太郎が振り向いた。 「お疲れさまです、みんな」  十人はぞろぞろと降りた。  真っ白な入道雲がそびえる夏の空の下で、リアハッチを開けて荷物を取り出した。まるで親しい親戚が集まった法事のあとのように、しんみりした空気だった。始などは涙ぐんで、せっかく仲良くなったのにもうお別れだねえ、と目頭を拭い、かえって翔子に笑われていた。  乗りこむときに一番最初に荷物を放りこんだ悦耶は、当然それを取り出すのが一番最後になった。静歌が引きずり出したスポーツバッグをひったくるように受け取って、背を向けようとしたときだった。 「おい」 「あ?」  振り返った悦耶の顔を、皓一が力いっぱい殴りつけた。  不意を突かれた悦耶は後ろへたたらを踏んだものの、倒れなかった。「ってェな」と短く吐き捨てると、バッグをアスファルトに落として逆に殴りかかった。皓一はそれを顔に食らって尻もちをついたが、すぐに跳ね起さてまた殴りつけた。悦耶が目をギラギラさせて殴り返す。唖然とするみんなの前で、二人はしばらく物も言わずにぶつかり合った。  おかしなことに、先に手を出した皓一のほうが腕っ節は弱いようで、じきに左右の頬を交互に殴られてひっくり返りそうになった。「しっかりして、皓一くん!」とほとりが後ろから支える。悦耶は肩で息をしながらそれをにらみ、「てめぇ、何がしたい?」と怒鳴りつけた。  くっそぉ……と手で顔を押さえた皓一が、力なく言う。 「謝れよ」 「はあ?」 「沙夕良ちゃんに、ちゃんと謝れ」 「知るか」 「てめえが言ったんだろうが! 人殺しをためらうのは人として普通だって。それは怒るようなことじゃねえって!」皓一は殴られて充血した目でにらむ。「あの子、それ信じたからおまえをかばおうとしたんだぞ! おまえが、自分にできないことをしてると思ったから! 人を憎んでも、それをこらえるってことをしたと思ったからだ! なのに、最後にあんなひどいことを言いやがって。少しは謝っとけよ、おい!」  息を呑んで見守るみんなから一歩下がって、静歌は周囲に目を配る。幸い、田舎の駅ロータリーにはひと気がまばらで、この騒ぎが他人の耳に入る恐れはなさそうだ。 「悦耶くん、わたし思ったんだけど」皓一の後ろから顔を出して、ほとりも言った。「ただ単に手を汚すのがイヤだったんなら、最初から空のボトルを下げたはずよね。二度も行ったり来たりしない。それなのにうろうろしたのは、迷ってたんでしょう? 自分でもそう言っていたし。雄大くんに当てられた気まずさで凄んだだけなんじゃない? だったら……」 「てめえの知ったことかよ黙れよ」  ドスの利いた声を出したかったのだろうが、いささか迫力に欠けていた。どこかうつろに言って、悦耶はバッグを手に取り、ふらふらと駅舎へ向かった。  その背をじっと見ていた静歌は、やがて風太郎に目を移した。彼は騒ぎのあいだひとことも口を挟まず、険しい顔で見守っていた。  静歌は言う。 「風さん、ちょっと賭けません?」 「――え? なにを賭けるの?」  物思いから醒めたように風太郎が聞き返す。静歌は首を振って、悦耶の消えた駅舎を指差す。 「カケです、ギャンブル。彼が戻ってくるかどうか」 「戻ってくるかって、そりゃ無理でしょう」風太郎は苦笑したが、静歌の大真面目な顔を見て、笑みを収めた。「……戻ると思ってるんですか?」 「彼がどれだけあの子を気にしていたかを考えれば」  沙夕良にちらりと目をやる。彼女は微動だにせずに、ここからは駅舎の陰になって見えないホームを見つめている。次の列車が来て去るまでそうしているつもりだということは、誰の目にも明らかだった。 「ふうむ」うなずいと風太郎が、片眉をあげる。「あなたは、戻ると思ってるんだ。じゃ、それに何を賭けるんですか」 「なんだって賭けるわよ、あらゆるものを。ただしあなたにも賭けてほしい」 「なにをお望みですか?」 「みんなの未来」  目を合わせる。風太郎の顎が、ぐっとこわばった。  それを確かめて、静歌はうっすらと笑った。 「乗ってもらうわよ。――沙夕良ちゃん、おいで!」  そう言って風太郎の返事を待ちもせず、少女の手をつかんで駅舎へ走っていった。        11  空っぽのバンを青草の中へぞんざいに止めて、風太郎は飛び降りた。さっきは十人で出てきたペンションの玄関へ、ひとりで戻る。ドアを開ける音も足音も、いやにはっきり響いた。これからのことを考えると気が滅入りこそすれ、浮き立つはずがなかった。  一階の客室前にいき、ポケットナイフを取り出して適当にひもを切った。ゴトン、ゴトン、と十本のぺットボトルが落ちる。全部落とすとドアを薄く開け、中を見てちょっと眉をひそめてから、全開にした。 「だめじゃないですか、起きていたら」  一代一人は、窓辺の応接椅子にゆったりと腰掛けて週刊誌を読んでいた。中肉中背のワイシャツ姿で、愛嬌がある顔立ちの、目元の優しい男だ。風太郎が入っていくと週刊誌を閉じて微笑んだ。 「いいじゃないの。エンジン音が軽かった。あの車、誰か乗ってるとぜいぜい言うからね」 「万が一に備えて、ボクがいいというまでは死んだふりを続ける手はずでしょう」 「あれ、お尻が痛くなっちゃうんだよ、半端にドアにもたれてるのって」  みんな帰ったね? ともう一度念を押して、一代は首にぶらさげていたロープをほどきにかかった。床には自力で抜け出したシーツが小さな山にしてある。ロープもシーツも、朝食前に静歌がやったように、誰かが室内を覗いた場合に短時間ごまかすための小道具だ。べッドのそばには、ロープをかけるおもりにした水入りのポリタンクと、クッションが置いてある。  クッションには、一晩中ロープで締め付けられたあとが、うっすらと残っていた。 「ご苦労様でした、まあお茶でもお飲み。ずっとしらばっくれているのは大変だったでしょう」  そう言って、一代は電気ポットの熱湯でほうじ茶を淹れた。椅子にかけて湯飲みを受け取った風太郎は、中身をぼんやりと見つめてつぶやいた。 「薬入りじゃありませんよね?」 「なんの薬を盛るっていうのよ、ぼくがあなたに」  一代は同じ急須からもう一杯注いで、口をつけてみせる。 「あなたは試験に合格したんだから。これから助手として目一杯働いてもらいます。殺すわけないでしょ」 「試験ね……」  口に含んだお茶は、ことのほか苦かった。  この試験が始まったのは、トネイロ会のことを彼に密告した直後だ。 「ほほう、反乱の企みですか。十人がかりで。主導者は静歌? 江口静歌だな。確かに彼女ならそれぐらいのことはやりそうだ」  電話でごく簡単な説明をしただけで一代は事情を飲みこみ、わずかな時間で逆の提案をしてきた。 「報告してきたのはあなたが初めてです。心から感謝しますが、この動きは潰さずにもうちょっと見守っていたい。あなたはこのまま会に参加し続けてもらえませんか?」 「逆スパイになれというんですな。いいでしょう、ボクもそのつもりだった。しかしもちろん報酬をいただきたい」 「会費の免除ですね」 「それだけじゃない。あんたはこの件をネタにして静歌さんたちの会費を上積みするつもりだろう。ボクはその半分がほしい」  一代は笑い出し、それならば試験をしましょう、と言ったのだった。風太郎が逆スパイとしての態度を最後まで貫くかどうか、という試験だ。  それに合格するために、風太郎は細心の注意を払って行動した。犯行現場として自分のペンションを提供することは最初から考えていたが、そこに一代を自然に招待できるという話に現実味を持たせるため、彼が昨年来たときの様子や、鮎を餌にしたことなど、いかにももっともらしいディテールを苦心してひねり出した。  そして昨日は、早めに訪れた一代とともに、小芝居の準備や赤外線カメラを廊下に隠す作業を行ってから、他の九人を出迎えたのだ。  静歌たちが、いくつ目のぺットボトルの重さで人間の気管と動脈が完全に閉塞するのか考えていたころ、風太郎だけは別のことを心配していた。自室で死んだふりをしている一代が、十人の秘密の儀式の珍妙さに耐えかねて、笑い出すのではないかということだ。  もちろん一代はそんなへまをやる男ではなく、空のぺットボトルを吊るした非犯人を風太郎たちが懸命に探しているあいだも忍耐強く自室で待ち続け、犯人たち(と思いこんでいるだけの九人)が立ち去るのを待って、ようやく持参の週刊誌の続きを読み始めたというわけだった。  そして今は赤外線カメラの映像を見返して、やあ撮れてる撮れてる、と顔をほころばせている。皓一が物音を気にしながら懸命にひもを結ぶさまや、沙夕良が三本の重いボトルを、小さな手で必死になって結び付けているさまなどを、うっとりと眺める。今日これから自宅に帰ったら、嬉々としてこの映像の編集作業に取りかかり、徹夜で新たな恐喝材料を作り上げるのだろう。  悪魔だ、と風太郎は思う。この男はただ金を巻きあげるだけの存在ではない。犠牲者の魂を衰弱させていき、それによって力を得ていく怪物なのだ。  そして彼に手を貸した自分も、悪魔の眷属《けんぞく》に成り果てたのだ。 「ご覧なさい、柏木《かしわぎ》さん。江口静歌の決定的瞬間です。これは見ものですよ」  風太郎を名字で呼んで、一代が手招きする。 「あんたの首を絞めようとしている女ですよ。そんなに嬉しいですか」 「絞めようとして、仕損じているから嬉しいんじゃないですか。ほらここ、つかんだ手をぶるぶる震わせて。ああ、私を殺したいんでしょうねえ。思いっきり引っ張りたいんだ。でもこらえて……ボトルを結ぶ。いやいや、すごい自制心だな! まるで無意味な自制だが!」  手を打って喜ぶ一代の隣で、風太郎も舌を巻く。この女こそ傑物だ。自分が提供したのは大道具や小道具といったものだけで、脚本をここまで進めたのは真に彼女の力だった。  彼女をだまさなければならなかったのは、なんと心苦しかったことか。  だが、この苦しさもあと少しのことだ。――自分は忌まわしいこの地を離れて、しばらく行方をくらます。静歌たちに話したとおりだが、そうすることにした理由は正反対だった。一代から逃げるためでなく、静歌たちからの報復を避けるためだ。 「さっさと移動しましょう。ここにいるのはつらい」 「まあそう言わず、食事ぐらい出してくれませんかね。私は腹ぺこなんだ」 「何も残ってませんよ、最後の宴に全部開けちゃったから」 「なんだ、それじゃあ仕方ない」  しぶしぶといった様子で一代は帰り支度を始めた。それを手伝いながら、風太郎は訊く。 「ところでさ、一代さん。ボクはあんたの助手になったわけだが、これからどうすりゃいいんです。かばん持ちでもするの?」 「国内にいると何かと足がつきますからね、早いうちに日本を出て、落ち着いたら倉庫と中継さんをやってもらいます」 「中継さん?」 「アジアのあちこちへ出かけてね、一代会の会費の転送やら、バックアップデータの保管やらをね。あなたも送ってたでしょ、今まで」 「ああ、あれはそういう人たちだったんですか……」 「ローテーションで定期的に移動してもらっています。あなたも適当な先輩について仕事を覚えてください。ええと、今ひまなのは」一代は携帯電話をパチンと広げて、暗証番号を入力し、スケジュール表を表示させた。「バンコックの吉阪《よしざか》さんかな。明日にでもバンコックに飛んでください」 「バンコックか、じゃあ夏服のままでいいのかな。一代さん、ちょっとこれ」 「いいんじゃないですか。はい?」  一代が携帯から顔を上げたとき、風太郎は電気ポットの蓋を開けて正面に立っていた。  その中に残っていた熱湯を、庭に打ち水するような手つきで、一代の膝のあたりに浴びせた。  ぱっと湯気が飛び散り、男は一瞬、面食らう。次の瞬間「あっ、熱ッ! あッ!」と悲鳴を上げた。片手に持っていた貴重品を急いでテーブルに置き、踊るように跳ねながら、ズボンを両手ではたく。 「あっ、なんの真似だ! 柏木――!」  動顛《どうてん》してぶざまにもがいていた一代が、突然、熱さも忘れたように立ち尽くした。  風太郎が手を伸ばし、一代の携帯電話を手にしたところだった。  彼は手のひらをくぼませて、開いたままの携帯を宝物のように捧げ持っていた。小さな液晶画面を見る目に喜びの光がある。 「やっとボクの前でこいつを使ってくれたね、一代さん」 「それを放せ」 「『中継さん』だっけ、それがバックアップを持っていてくれるんだね? で、それはボクたちみたいな被害者だと。連絡さえつけば説得できるだろうね。その連絡先がわからないのがこれまでネックだったわけだが」 「放せ」 「悪いね、一代さん。雇ってもらったばかりだが、ボクは助手を辞めるよ」 「放せ、この――!」  両足の太腿を覆う熱湯やけどを無視したほどだから、一代一人の意志力は凄まじいものだったと言えるだろう。湯気を突いて彼は飛びかかった。携帯を破壊する、でなくても二つ折りに閉じる、それだけで再び主導権を取り戻せるはずだった。  立ちはだかる風太郎はすでに携帯を持っていなかった。  彼の背後に立つ静歌に、それは渡されていた。  ――なに?  と一代が驚いた直後には、突き飛ばされて床に尻もちをついている。その左に皓一とほとりと始と翔子が現われ、その右には雄大と守吉と沙夕良と悦耶が出てきた。  トネイロ会の十人が、一代一人を取り囲んだ。 「あな……どう……」  混乱してつぶやく一代に、風太郎が言う。 「ちょっと向こうで車から下ろしたんだ。歩いてきてもらった」 「わりと最後のほうまで風さんは秘密を守ったわよ。ただ、私が賭けに勝ったからね、こちらについてくれた」 「賭け!?」 「ある人が素直になれる勇気を持っているかどうか、っていう賭け」  その人が誰なのか、怯えて首を巡らせる一代にはわかろうはずもない。  ただ、仏頂面をした茶髪の青年が、小さな手の少女にそっとひじの辺りをつかまれて、確かに立っている。 「トネイロ会はもう一度結束したわ。いえ、初めて結束した。一代一人、あきらめなさい」 「待て、何を――!」  後ずさりで逃げようとする男の両肩を、二人の青年ががっしりと捉まえた。  女が男の首にロープを巻き、娘と少女が左右へそれを伸ばす。老人と体格のいい男が右側のはしを受け取り、初老の男が左のはしを受け取った。  女が携帯電話を大切そうに背後の机に置き、男とともにロープを握った。 「せーの!」  五人と五人が、左右へ思い切りよくロープを引いた。  ぐしゃり、ぼきんと筒状のものが潰れて折れる音が響き、丸い頭がぐらりとぶら下がった。 「おしまい! 悦耶くん、沙夕良ちゃんと外へ。守吉さん、確かめてね!」  青年が少女の肩を抱いて急いで外へ出て行くと、大人たちは深々とため息をついて、疲れた顔を見合わせたのだった。        12  一人では難しいことも、十人がかりならたやすい。人目を警戒しながらペンションの裏に五メートルの穴を掘って、重さ七十キロのものを沈めて土を埋め戻す。トネイロ会は二時間半でこれをやってのけた。 「見つかると思う?」 「ボクたちが自白すればね」  なら見つからないということだ――と静歌は思った。トネイロ会は十人が十人とも、完全な合意をもって一代一人を殺害した。悦耶は沙夕良の懸命な訴えにほだされて力を貸してくれたし、風太郎も恐喝者の側につくメリットを失い、真の仲間になった。もはや誰かひとりが裏切ることはありえなかった。 「裏切り者は出ない、かもしれないけど――」  ペンションの表からは美しい夕日が望める。厨房じゅうを漁って出てきたちょうど十本のジュースと酒を片手に、一同はバルコニーで休んだ。心地よく酔った静歌はしかし、なんて邪悪な酔いなんだろうと思っている。 「ねえ、私たち、こんなことで仲良くなっていいのかしら?」 「いいも悪いもないです、もうやっちゃったんだから!」  ロープを握っていた手のひらを閉じたり開いたりして、翔子が泣き笑いみたいな顔をする。 「こんなこと誰にも話せない。この感触も多分死ぬまで忘れられない。――みんな、よろしくです。お墓まで持っていきましょう」 「ああ」「そうね」「乾杯」「南無阿弥陀仏――」  みんなが唱和して、飲み物を掲げた。 「よかったな、おめー。非犯人じゃなくなって」 「全ッ然よくねえよ、巻きこみやがって畜生。……ン」  皓一と沙夕良が差し出す缶ジュースに、悦耶が軽くビールを打ち当てた。 [#改ページ] 初出 ★ 星風よ、淀みに吹け      「小説宝石」二〇〇九年十二月号 くばり神の紀         「小説宝石」二〇一〇年十二月号 トネイロ会の非殺人事件    「小説宝石」二〇一一年八月号 小 川 一 水(おがわ・いっすい) 一九七五年、岐阜県生まれ。 一九九三年、『リトルスター』で第三回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞佳作入選。 一九九六年、『まずは一報ポプラパレスより』で第六回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞。 二〇〇四年、『第六大陸』で第三十五回星雲霓を受賞。 二〇〇五年。『老ヴォールの惑星』で「ベストSF2005」第一位に選ばれる。二〇〇六年、『漂った男』で第三十七回星雲賞を受賞。 二〇一一年、『アリスマ王の愛した魔物』で第四十二回星雲霓を受賞。 近著に、『不全世界の創造手《アーキテクト》』『煙突の上にハイヒール』『天冥《てんめい》の標《しるべ》』 『博物戦艦アンヴェイル』『青い星まで飛んでいけ』などがある。